カトリック香里教会主任司祭:林和則
第一朗読「ミカの預言5章1―4a節」
預言者ミカは紀元前8世紀後半、南ユダ王国で活動しました。同時代の預言者として第一イザヤがいます。その当時、紀元前722年に北イスラエルを滅ぼしたアッシリアの軍事的脅威に、南ユダ王国の王や大臣たちは右往左往していました。神を信頼せず、人間的な思考の枠の中でもがいている王の姿にイザヤもミカも失望し、人間ではない、神の遣わされるメシアとしての王を待望するようになります。それが「わたし(神)のためにイスラエルを治める者(1節)」です。
本日の朗読箇所の冒頭に当たるこの第1節は「マタイによる福音」のキリストの降誕物語にメシアの誕生の預言として、表現を一部変えながらも取り入れられています。占星術の学者たちの「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか(2章2節)」という問いかけに対して、祭司長たちや律法学者たちは次のように答えます。
「預言者(ミカ)がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである』(2章6節)」
太所は、本日の原文では「お前はユダの氏族の中でいと小さき者」となっています。「お前」は人格化されたベツレヘムの町を指していますが、預言者ミカを通して神が私たちに示したいことは、メシアは「小さき者」たちを通して来るということであると思えます。
人類の歴史は王や為政者やまた偉人たち、歴史上に名を残した「偉大な者」たちによって造られて来ました。けれども神の救いの歴史は「いと小さき者」たちによって造られて行くのです。
メシアとして来られたイエスもふかふかのベッドではなく「飼い葉桶」に寝かされた最も貧しい者として生まれ、当時のローマ世界において最大の屈辱とされていた「十字架」にはりつけにされた敗北者として死んで行ったのです。
「マタイによる福音」では「「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(25章40節)」と言われて、「最も小さい者」とご自分を同一視されています。
まさにイエスは「いと小さき者」として、この世に来られました。神の救いの歴史を造っていくのは「偉大なる者」ではなく「いと小さき者」なのです。
第二朗読「ヘブライ人への手紙10章5―10節」
今週、いよいよ降誕祭を迎えます。第二朗読の「ヘブライ人への手紙」では「御覧ください。わたしは来ました(7節)」という詩編40番の言葉をキリストご自身の言葉として、キリストが世に来られた喜びを表現しています。続けてキリストが来られるのは「(神の)御心を行うために(同上)」であったとしています。
その「御心」を「ヘブライ人への手紙」では「第二のものを立てるために、最初のものを廃止される(9節)」ことであるとしています。「最初のもの」は旧約の律法による契約、救いです。「第二のもの」はキリストによる契約、救いです。
それは「ただ一度イエス・キリストの体が献げられたこと(10節)」すなわち「キリストの十字架」によって完成され、それによって「わたしたちは聖なる者(同上)」すなわち「神の子」とされたのです。
「神の御心」はキリストを通して私たちを「神の子」とし、「父と子と聖霊」の愛の交わりに招き入れることだったのです。それは神が私たちを愛してくださっているからにほかなりません。
福音朗読「ルカによる福音1章39―45節」
本日の福音も主の降誕を間近に控えた喜びにふさわしい箇所が選ばれています。「マリアのエリサベト訪問」には祝典的な喜びが満ち溢れています。
まずマリアは急いでユダの「山里に向かい(39節)」ます。この表現からはマリアが短時間のうちにザカリアの家に着いたかのような印象を受けます。けれども実際には、マリアの住むガリラヤのナザレからユダの山里までは歩いて三日ほどかかる距離がありました。それをルカはマリアが一足飛びにたどり着いたかのように描き出します。これは聖霊の促しによってはずむような心で、踊るようにして駆け出しているマリアの姿を伝えたいからです。実際にマリアにとっては三日の距離など感じることなく、あっという間に時間が過ぎ去ったかのように感じられたことでしょう。マリアの心は聖霊による喜びに満たされていたからです。
ザカリアの家に入ったマリアは「エリサベトに挨拶(40節)」します。本日の朗読箇所では、この「挨拶」という行為が重要な役割を果たしています。
「挨拶」ですけれども、まずこの言葉に用いられている二文字の漢字は、私たちがこの用例以外にまず目にすることのない特殊な漢字であると言うことができるでしょう。以前、私は「挨拶」という言葉について調べたことがあるのですが、ある釈義書では「仏教用語」であると書かれていました。仏教の僧侶が修行によって行うことのできる「修法(しゅほう)」のひとつであるというのです。
それによれば「挨」とは「まっさらな心で相手と向き合い、ありのままの己を差し出すこと」であり、「拶」とは「その『挨』によって相手の真の心を引き出すこと」であるそうです。
確かに「仏教の修法」と言うまでもなく、「挨拶」は私たちの人間関係において、とても大切なものです。「人間関係のトラブルのほとんどは挨拶の欠如によって生じる」と言われることもあるほどです。実際に、ある人と関係が悪くなると、お互いに「挨拶」を交わすことに困難を感じるようになります。自分の方から「挨拶」をすることが相手に対して敗北を認めたかのような、沽券に関わる重大事となってしまうのです。
けれども勇気を出して、それまでのわだかまりを捨て去って、無心(これを「まっさらな心」と言うのでしょう)な笑顔で相手に「挨拶」をすることによって、それまでのもつれにもつれてしまった関係が嘘みたいに、一気に解消してしまう場合があるのです。
確かに「挨拶」には閉じてしまった心を「開く」力があるのです。
けれども、これだけでは人間関係の問題に関わる「道徳」的な次元で終わってしまいます。マリアがエリサベトにした「挨拶」は人間関係を超えた、聖霊の働きによって為された「神のわざ」なのです。
マリアはエリサベトに「挨拶」をしたことによって、神の子を宿した際に自分に降った聖霊(「「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む(ルカ1章35節)」)を「挨拶」を通してエリサベトにも「与えた」のです。それはマリアではなく「聖霊の働き」でした。
その聖霊を受けて「その胎内の子(洗礼者ヨハネ)がおどった(41節)」のです。
「エリサベトは聖霊に満たされて声高らかに言った(42節)」のです。それはマリアの「挨拶」にたいする答えとしての「挨拶」で、マリアを「「祝福」しました。その「祝福」はエリサベトを通してマリアに与えられた「神からの祝福」であったのです。
私たちキリスト者の「挨拶」はこのように聖霊の働きによって、神の恵みを相手に与えるものなのです。それは「旧約」の信仰から受け継がれてきたものです。
「シロローム」はヘブライ語で「平和」を意味する言葉で、挨拶に用いられる場合は「平和があるように」という意味になります。「マタイによる福音」の宣教活動において「その家に入ったら『平和があるように』と挨拶しなさい(10:12)」の「挨拶」が「シロローム」であったと考えられています。その「平和」は宣教者が与えるのではなくて、宣教者を通して「神」が与えるのです。
感謝の典礼において聖体拝領の直前に「平和の挨拶」を交わすのは、聖霊の働きによってキリストが一人ひとりを通して「主の平和」を与えてくださることなのです。お互いのために「平和の道具」となった私たちが聖体を拝領することによって、「キリストの体」において「ひとつ」になるのです。
私たちにとって「挨拶」は私たちを通して働く「神のわざ」なのです。
