2024年12月15日 待降節第3主日(C年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭:林和則

 

第一朗読「ゼファニヤの預言3章14―17節」

ゼファニヤは紀元前7世紀の後半、ユダ王国のヨシヤ王の時代に預言者として活動しました。ヨシヤ王の父であったマナセ王の時代では、紀元前720年に北イスラエル王国を滅ぼしたアッシリア帝国が南ユダ王国に対しても軍事的に圧力を与え続けていました。マナセ王はアッシリアに隷属政策をとり、朝貢外交を行いました。またアッシリアの要求を受け入れて、アッシリアの神々の礼拝をユダ王国に導入して、各地にバアル神の神殿などを建設しました。

けれどもヨシヤ王の時代になって、アッシリアは内乱状態に陥り、ユダ王国を威圧していたサマリア地方のアッシリア軍は撤退して行き、ユダ王国はアッシリアの軍事的脅威から解放されました。自主独立を取り戻したヨシヤ王は622年に宗教改革を断行し、異国の神々の神殿および偶像をユダ王国から一掃し、イスラエル本来の神の教えに立ち返ることを民に求めました。ゼファニヤはその改革運動を支持し、その喜びが本日の朗読箇所にも満ちあふれています。

ですから15節の「お前の敵」とはアッシリア帝国のことを指しています。ただ、現在の私たちがこの箇所を自らの祈りとする時、「敵」に具体的な「国家」や自分にとって好ましくない具体的な「誰か」を当てはめるべきではありません。

自分の中にいる「敵」、私たちを神から引き離す、この世的な欲望や、自己中心的な思いをこそ「敵」として、待降節に当たって、神がそのような「敵」を私たちの中から追い払ってくださるように祈り求めましょう。

 

本日の箇所は14節から15節までと16節から17節までと前半と後半に分かれています。前半は天使が地上のイスラエルの民に呼びかける言葉、後半が天使の言葉を受けた人びとが人格化されたエルサレムの街に呼びかける言葉として構成されています。

前半ではイスラエルの人びとの喜びの叫びが響いています。それを受けて後半では主である神の喜びが歌声となって響いているのです。人の喜びと神の喜びが交差し、ハーモニーとなって響き渡る、喜びの饗宴となっています。

ゼファニヤを通して神が私たちに伝えたいことは、人間の喜び、私たちの喜びが神の喜びとなることなのです。

「お前(人間)のゆえに(神は)喜びの歌をもって楽しまれる(17節)」

これは驚くべきことです。全宇宙を、そして私たち人間を創造された神が、被造物にすぎない、ちっぽけな存在である私たちの喜びをご自分の喜びとされるのです。逆に言えば、私たちの悲しみをご自分の悲しみとされるのです。神は私たち人間をそれほどまでに愛してくださっているのです。

その神の愛が結実して「人間イエス」となってくださったのです。

 

第二朗読「使徒パウロのフィリピの教会への手紙4章4―7節」

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい(4節)」

本日の朗読箇所のこのパウロの呼びかけは「テサロニケの信徒への手紙」において、より深く表現されています。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです(『テサロニケの信徒への手紙一5章16―18節』)」

ここでは第一朗読と同じように、神の望みは「人間の喜び」であることが語られています。それが新約においては「キリスト・イエスにおいて」となります。

言ってみれば、神がキリスト・イエスを遣わしたのは、私たちに「喜び」をもたらすためであったからなのです。その「喜び」はこの世的な地位や財産や名誉、また快楽によってもたらされるものではありません。キリストの誕生によって地上に実現した「インマヌエル=神は我々と共におられる(マタイによる福音1章23節)」の喜びです。神の子が人となって来られたことによって、目に見えるものとなった「神と共にいる喜び」です。

逆に言うと、私たちは「いつも喜んでいる」ことによって人びとに「神が共にいる」ことをあかしすることができるのです。パウロがこのように「喜び」を強調するのは、それが「宣教者」にとって欠くことのできない、根本的な姿勢であるからです。

もし「神は私たちと共にいます」と伝えながら、当の宣教者がいつも暗く悲しい顔をして、不平不満ばかりを言っていれば、その言葉が聞く人に伝わるわけがありません。まさに「言葉」だけ、口だけの偽りになってしまいます。宣教者がどんな困難な状況にあっても、いつも喜んでいる姿にこそ、「神がその人と共にいる」ことを人びとに感銘をもって実感させ、信仰へと導くことができるのです。

私たちもまず、いつも喜んで、どんな時にも感謝するようにしましょう。それこそが宣教の土台となります。いもも喜んでいない宣教者は、まさに「「土台なしで地面に家を建てた人(ルカによる福音6章49節)」になってしまうのです。

 

福音朗読「ルカによる福音3章10―18節」

本日の福音の冒頭で群衆がせっぱ詰まったような様子で「わたしたちはどうすればよいのですか(10節)」と必死になってヨハネに問いかけるのは、すぐ前の箇所でヨハネが群衆をさんざんに脅しもけたからです。

「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか(7節)」「斧は既に木の根元に置かれている。よい実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる(9節)」

これらの「脅迫」といってもよい、激しい言葉に恐れおののいた群衆はヨハネに「どうすれば切り倒されずにすむのか」というように詰め寄ったのです。

けれどもヨハネの答えは先の過激な脅しのわりには、きわめて妥当な常識的なものでした。徴税人や兵士に対して「その職業をやめよ!」ではなく「規定以上のものは取り立てるな(13節)」とか「自分の給料で満足せよ(14節)」といったように現状維持を許容した上での常識的な勧めです。群衆に対しても施しをするに当たって自分の持っているもの全てではなく「下着を二枚持っているものは、一枚(11節)」と自分のできる範囲でよいというような妥当な勧めをします。過激な断罪の言葉にくらべれば「肩すかし」のような穏当な答えです。ある意味、ヨハネは「飴とムチ」を用いて群衆を導こうとしていたのかも知れません。洗礼者ヨハネは過激な人というよりも、中庸をわきまえた常識人であったのかも知れません。

むしろイエスの方が「過激」なのです。金持ちの青年には「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい・・それから、わたしに従いなさい(マタイ19章21節)」と命じます。イエスに従うためには全財産を施せというように、現状維持を許さず、それまでの生き方を完全に変えてしまうことを要求するのです。

これはひとつには、洗礼者ヨハネの「洗礼」とキリストの「洗礼」の根本的な違いによっているのだと思えます。

ヨハネの洗礼はあくまでも「儀式」としての洗礼でした。「体」を清めるという「儀式」によって、それまでの生き方の「姿勢」を変えさせようとする、いわばあくまでも内面的な「心の動き」の次元におけるものでした。

それに対してキリストの洗礼は「秘跡」なのです。聖霊が働いて、本質的にその人の「命」を変えてしまうのです。それはキリストの「死と復活」がその人の「命」において実現することであって、人は本質的に、根本的に変えられるのです。「心の動き」というような次元のようなものではないのです。

そのためにイエスの教え、要求も決定的な、絶対的なものになるのだと思えます。「命」を変えられて「神の子」となったことによって、生き方も根本的に変わることが要求されることになるのです。

パウロの以下の言葉も、私たちがキリストの洗礼によって決定的に変えられたことを前提にして語られているのです。

「(洗礼によって)あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価(キリストの十字架の死)を払って(神に)買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい(一コリント6章19―20節)」