カトリック香里教会主任司祭:林和則
本日のミサの第一朗読、第二朗読、福音朗読、ともに「終末」もしくは「キリストの再臨」について語られている箇所が選ばれています。
第一朗読「エレミヤの預言33章14―16節」の「正義の若枝を生え出でさせる(15節)」と書かれているのは「神がメシアを遣わされる」ことであり、「その日(16節)」は「世の終わりの日」であり、「ユダは救われ(16節)」ることになるという、終末におけるメシアの到来による救いが預言されています。
第二朗読「使徒パウロのテサロニケの教会への手紙一3章12節―4章2節」では「わたしたちの主イエスが、ご自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき(3章12節)」と終末におけるキリストの再臨への確信が述べられています。
福音朗読「「ルカによる福音21章25―28節、34―36節」ではマタイ、マルコ、ルカの共観福音書における黙示文学として「小黙示録」と呼ばれているルカの箇所の「天体が揺り動かされる(26節)」というような、まさに「世の終わり」と「キリストの再臨(27節)」についてのイエスの言葉が選ばれています。
先週の「王であるキリスト」は典礼暦の一年間の最後の主日として、まさに「終末」と「キリストの再臨」を記念し、祈り求める日であるとされていました。
それが典礼暦の年が改まり、救いの歴史の曙(あけぼの)である主の降誕を待ち望む「待降節」に入ったのになぜ、また先週の「王であるキリスト」に引き続くかのように「終末」と「キリストの再臨」に関する朗読箇所が選ばれているのかと疑問に思われる方もおられるかと思いますが、「待降節」の「待つ」は「主の降誕」を待ち望むと同時に「主の再臨」を待ち望む時でもあるのです。
「待降節は二重の特質をもつ。それはまず、神の子の第一の来臨を思い起こす降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、それを通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある(「ミミサ典礼書の総則と典礼暦年の一般原則(カトリック中央協議会)』45頁)」
本日の福音では天体が揺り動くような天変地異に世の人びとは「この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失う(26節)」とイエスは言われます。
けれどもキリスト者は「おびえ」もせず「恐れ」もしません。なぜならばキリスト者にとって「終末」は「解放の時(28節)」だからです。
「解放」は原文のギリシア語では「アポリュトローシス」で、単なる解放ではなく、当時の時代背景が反映された「解放」の意味を持っています。その意味を加えて直訳するならば「身代金を支払って奴隷や捕虜を買い戻し、自由にすること」になります。
当時の古代世界では奴隷制は社会に広く行き渡っていて、「人」が「商品」として売買されていました。もっとも一般的な例は、当時の人口のほとんどを占めていた農民たちでした。当時の農民のほとんどは「貧農」といってよいような経済的に困窮した状態に置かれていました。そのため、種を買うお金はなく、商人や金持ちから種そのものを借りるのですが、その際に土地もしくは自分と家族を「担保」にするのです。そして収穫時の実りの現物によってそれを返すのですが、実りが少なかった場合には土地を奪われたり、自分と家族が奴隷として売買の対象になってしまうのです。
また戦争があった場合では敗れた国の国民が奴隷とされて、売り買いされました。その場合にはかつては貴族や学者であった者までもが奴隷とされ、高額で取引されました。
そのような奴隷となった人びとを身代金を支払って買い戻し、自由の身にすることを「アポリュトローシス」と呼んだのです。
私たちもキリストによって「アポリュトローシス」されたのです。
私たちは「罪の奴隷」でした。奴隷は主人に逆らうことができません。私たちも罪の誘惑に陥った時、「それをしてはいけない」「それをすれば自分自身を、また他者との関係を壊してしまうことになる」とわかっていても、首に縄をつけられて引きずられるように、結果的に罪を犯してしまいます。何かに囚われてしまう「依存症」はその最たるものでしょう。まさに私たちは「罪の誘惑」に逆らうことのできない「罪の奴隷」なのです。
「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです(ローマへの信徒への手紙6章16節)」
しかし弱い私たちは自らの力によっては義に至ることはできないのです。原罪のうちにある私たちは「神」を憧れつつも「罪」に引きずられて行くのです。
そのような奴隷状態にあった私たちを神自らが買い戻してくださったのです。
そのために神は身代金として、ご自分の愛する独り子を差し出してくださったのです。それは「父と子と聖霊の愛の交わり」を自ら引き裂いて、愛する子を地上に降ろして人間とすることから始まりました。その「受肉の神秘」を記念するのが「主の降誕」です。
そして神は愛する独り子を十字架に掛けるという、神自らもご自分を引き裂くような痛みをもって、私たちを「解放」してくださったのです。その「解放」が完成されるのが「終末」における「主の再臨」なのです。
