カトリック香里教会主任司祭:林 和則
本日は典礼暦の一年間の最後の主日になります。来週の待降節第一主日からは典礼暦の新たな年、朗読配分においてはC年が始まります。
教会暦は一年間の時の流れを通して、神の救いの歴史を追体験するための手段です。それは「追体験」というよりも、みことばと秘跡を通して神の救いの歴史の出来事が「現在化」することによって「体験」することができるのです。
たとえば、来週の主日からの待降節、降誕説を通して私たちは2000年前の人となられた神の子イエスの降誕を追体験するというよりも、まさに「体験」します。「現在」という時間が「神の救いの歴史」の中に呑みこまれるのです。それによって私たちの生活が日常の単調な、偶然の積み重ねではなく、「神の救いの歴史」の中での日々となり、生活自体が聖化されます。いわば私たちは典礼暦を生きることによって、地上の生活を生きながらも天上の生活を生きることができるのです。典礼暦は、信仰生活を生きるための「骨格」を形作るのです。
典礼暦を生きるための具体的な方法は典礼暦の朗読配分による毎日のミサの中の聖書の朗読箇所を読み、黙想することです。朗読配分は「聖書と典礼」のしおりの裏に書かれていますが、それに従って聖書を開いて読むことは手間になり、途中で投げ出してしまうことになりかねません。
ぜひ、カトリック中央協議会が一ヶ月ごとに発行している冊子「毎日のミサ(税込み468円・年間購読料5500円)」をお使いください。毎日の朗読箇所が書かれているだけではなく、当日のミサの祈願文、答唱詩編なども掲載されています。祈願文は当日の福音、また記念される出来事や聖人たちに基づいて作成されています。答唱詩編は第一朗読をより深く味わうために選ばれています。いずれも当日の福音や意向を黙想するための助けになります。
今まで実行していなかった方は、ぜひ、来週から新たな典礼暦の一年が始まるのに合わせて、実行してください。継続していけば、必ず日々の生活が変わります。「毎日のミサ」の購入を希望される方は事務所にお問い合わせください。
本日の、典礼暦での一年間の最後の主日は「王であるキリスト」が祝われます。「王であるキリスト」は終末において再臨されるキリストの姿です。かつて2000年ほど前に弟子たちと共に生きたイエスの姿のままで目に見える姿となられて、天における神の右の座から再び地上に降臨されるのです。
ですから本日は「終末」を思う日でもあります。私たちキリスト者は「終末を生きる民」と呼ぶことができます。それはけっして終末がどのようなかたちで来るのか、どんなことが起こるのか、いつ来るのかといった具体的な終末を思いめぐらして右往左往する生き方ではありません。
今、目に見えているこの世界が「絶対」ではなく必ず終わりが来るという視点を持つことによって、この世界を「相対化」するのです。それは「この世界しかない」という閉塞感から解放されることです。
今、毎年のように「不登校」とされる小中学生の統計数が過去最多を更新し続けています。ちなみに昨年2023年度は34万6482人で、やはり過去最高を更新しました。日本的な管理教育の弊害など様々な原因が考えられますが、ひとつには学校が「ここだけしかない」という逃げ場のない「密閉された箱」になってしまっている現状が問題点としてあげられています。
そのために学校だけではない学びの場、フリースクールなどの設立が模索されています。けれども困難を乗り越えて「学校」に行くことこそが自己鍛錬、教育だというような「根性論」がいまだに社会に根強くあり、親や子どもたちを縛りつけ、苦しめています。
同じようにこの世界が「ここしかない」というように「絶対化」すると「閉ざされた箱」になってしまいます。特に日本のような競争社会、管理社会においてはそこから脱落したり、排除されたりすると「居場所」を失ってしまうことになってしまいます。「ひきこもり」に陥ってしまっている成人の数が100万人を超えているという現状はまさにそのような閉塞感の表れではないかと思えます。
けれども私たちにとってこの世界という「箱」は閉じてはいないのです。上のふたが開いているのです。その開いた向こうに「天」が、神の座があることを信じているからです。この「箱」の上に光に満ちた世界があると信じることによって、私たちはいつでもその「天」をあおぐことができ、そこから降り注いでいる「光」を受けることができるのです。
「箱」の中の世界の価値観、財産や地位や名誉や成功といったものから完全に解放されるのは生きている限り、むずかしいと思います。でもそれらにからめ捕られながらも、いつも「天」をあおぐことができます。手を「地」から引き離し「天」に向かって差しのべることができるのです。
このように地上的なものに囚われず、執着から解放されて、神の子の自由に生きようと希望すること、これこそが「終末を生きる民」の生き方です。
「終末を生きる民」としてのもうひとつの大切な生き方は仏教的な表現を使えば、「末期の目」という視点をもって生きるということです。
それを説明するためにいつも、私は1952年に公開された黒澤明監督の「生きる」を例に出します。
映画「生きる」の志村喬さんが演じていた主人公は、まさに「小役人」という言葉がぴったりと当てはまるような、市役所で働く公務員でした。彼は30年間無欠勤のまじめな男ではありましたが、事なかれ主義的で、ひたすら定年まで無事に勤めを終えることだけを考えていました。市民から面倒な陳情などが来れば、他の部署にたらい回しにし、自分の保身だけを考えるような男であったのです。そんな彼がある日、病院の健康診断の結果、ガンであることが判明し、余命いくばくもないことを宣告されます。
その日から彼は「末期の目」という視点を持って生きることになります。今までの生き方に虚しさを覚え、残された日々を懸命に生きようとします。命の尊さ、生きている日々の尊さを知り、残された命を無意味にではなく、「意味」のある人生に変えようと決心します。
具体的には、彼は母親たちが何度も掛け合いに来ては適当にあしらわれている「公園を造ってほしい」という陳情に目を留め、それを実現するために奮闘します。時には地元のヤクザに脅されながらも、くじけることなく、懸命に取り組みました。
そして遂に公園は完成します。冬の夜、雪の降る中を彼はその公園のブランコに乗って「命短し、恋せよ乙女・・・」と「ゴンドラの歌」を口ずさみつつ、死んで行きました。
私たちも明日にでも「終末」が来るという意識、「末期の目」を持てば、「今」が尊い時間になります。今日という日が、いえ、今の一分、一秒が無駄にすることのできない尊い「時間」になります。
「終末を生きる」というのは、「どうせこの世は終わるんだから」と「この世」をいい加減に生きることではありません。むしろその逆で、「今」を「今しかない」限りなく尊い時間として、一生懸命に生きることなのです。その尊さは、神が与えてくださった「時間」であるという信仰に基づいています。
そして、私たちキリスト者にとって「一生懸命に生きる」ということは何か事業を成し遂げるというように、この世的に成功することではありません。
それは「キリストのように生きる」ということです。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい(ヨハネ15:12)」
というイエスの願いに応えて、愛し合い、ゆるし合い、人びとの幸せのために自分を献げて行くという、キリストの生き方に少しでも近づけるように努力することこそが私たちキリスト者にとって「一生懸命に生きる」ことなのです。
そのことが絶えず、「今日」「今」という時間の中で問われている、その意識をもって生きるのが「終末を生きる民」の生き方です。
