カトリック香里教会主任司祭 林和則
本日のみ言葉は第一朗読、第二朗読、福音朗読、共に「終末」いわゆる「世の終わり」に関する箇所が選ばれています。それは来週24日が、年間の最後の主日である「王であるキリスト」の祭日であるからです。
典礼暦は神の救いの歴史を年ごとに時の流れと共に記念、追体験するものです。「年間」はある意味、「日常」の日々を表しています。その「日常」の日々が「王であるキリスト」の再臨によって終わること、すなわち「終末」を来週は記念し、ミサの秘跡の中でそれは現在化され、私たちは「終末」を体験するのです。
次の12月1日の主日からは「待降節」が始まります。「待降節」は過去に起こったキリストの降誕を待つだけでなく、未来に起こる「終末」を待つ時でもあるのです。
今日から2週間、私たちは「終末」を黙想する時を過ごします。
第一朗読「ダニエルの預言12章1―3節」
ダニエル書は紀元前164年ごろに書かれました。この書が書かれた歴史的背景には、その3年前の167年に当時ユダヤを支配していたシリアの王アンティオコス四世によるユダヤ教に対しての大規模な迫害がありました。アンティオコス四世はギリシア文化とその宗教を崇拝し、本国のシリアだけでなく、支配下にある国々にもそれを強制しました。そのためにユダヤにおいてはユダヤ教を排除しようとし、多くのユダヤ教徒がそれを受け入れず拷問や死刑などの迫害を受けて亡くなりました。いわゆるユダヤ教に「殉教者」が生まれて来たのです。
けれどもユダヤ教では「死後の世界」という概念がありません。旧約聖書本文でも「死後の世界」については全く何も書かれていません。アブラハムやモーセの死についても単に「眠りについた」と書かれているだけで、彼らが死後どうなったのかについては書かれていません。ユダヤ教には「あの世」という概念はないのです。
ただ、それでは殉教者の生涯が拷問や死刑による悲惨な死をもって終わってしまい、何らの「報い」も受けられないことになってしまいます。そこから「復活」という信仰がユダヤ教の中に生じて来たのです。本日の朗読には以下のような箇所があります。
「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める(2節)」
この箇所は、旧約聖書において死者の復活を初めて明白に語った箇所とされています。
また、「終末」が来るという「黙示思想」の「終末論」が強まって行きます。「終末論」は人類の歴史に対する絶望から生じました。紀元前334年から始まったギリシアのマケドニア王国のアレクサンドロス大王の東方遠征以来、ユダヤは周辺の国々と共に歴史の荒波に翻弄されます。まずマケドニアの支配、アレクサンドロス大王の死後はプトレマイオス王朝エジプト、セレウコス王朝シリアと目まぐるしく支配者が入れ替わります。けれどもユダヤには大国の支配に抵抗する術はありません。小国の悲哀を味わわされ続けました。
その絶望的状況の中にあってユダヤの民は、神が直接に人類の歴史に介入して人間による支配を終わらせ、新たな神の支配による歴史が始まることを希求し始めたのです。その「神の介入」をもたらす存在としての「メシア(ダニエル書では『人の子』)」が待望されるようにもなり、そのような「メシア主義」もダニエル書から明白に書かれ出します。
そのような「終末論」「メシア主義」が頂点に達し、ユダヤ社会が沸騰していたのがイエスの活動していた時代だったのです。
第二朗読「ヘブライ人への手紙10章11―14、18節」
本日の朗読箇所では人間の祭司とキリストの違いを「立ち(11節)」と「着き(12節)」という言葉を使い分けることによって表現しています。
人間の祭司は自らの弱さのゆえに不完全ないけにえしか献げられないために、繰り返し何度も献げなければならないので、絶えず「立ち」働かなければなりません。「立ち」はいけにえを献げ続けなければならない状態を表現しています。
対してキリストは完全な唯一のいけにえを献げたことによって、繰り返して献げる必要がありません。そのために神の右の座に「着く」ことができたのです。「着く」は原文のギリシア語では「座る」とも訳せる言葉です。ですから人間の祭司の「立つ」という言葉に対応しています。キリストは十字架を通して完全ないけにえを献げ、神と人との完全な和解を成し遂げたがゆえに、立ち働くことなく、「着く=座る」ことができるのです。
そして「待ち続けておられる(13節)」のです。それは「敵どもがご自分の足台となってしまう(13節)」ことによって、神の支配が完成する「終末の日」の到来を待ち続けておられるのです。
その「終末の日」が到来した時にキリストは再び「立ち」上がり、また「見える姿」となられて地上に下って来てくださるというように、「ヘブライ人への手紙」では「終末」と「キリストの再臨」を描き出しているのです。
福音朗読「マルコによる福音13章24―32節」
本日の福音は「終末」を「星は空から落ち(25節)」というように恐るべき「天変地異」により世界が崩壊するかのように描き出しています。そのために、この13章は「ヨハネによる黙示録」にも書かれているような世界の崩壊が預言されているので「小黙示録」と呼ばれています。
ただ、このような世界の崩壊は具体的な目に見える世界の崩壊ではなく、むしろこの世界に内在して、現在までの人類の歴史を動かす原動力となっている地上的価値観の崩壊を象徴的に表現しているのです。地上的価値観をひと言で言い表せば「弱肉強食」であると思います。現在に至るまで、人類の歴史は強者の勝利による支配、支配される敗者という構造によって成立して来たと言えると思うのです。日本の社会でも能力ある者や富や地位のある強者が支配的な位置につき、社会的弱者との間に大きな格差が生じています。世界的視野でみてもイエスの時代のように大国に富や資源が集中し、小国にはそれが流入しないような経済的構造が確立されていて、そこにも深刻な格差があります。
その地上的価値観が根本的にくつがえされることによって、現在の世界が崩壊し、弱肉強食の原理による人類の歴史が終わる、それが「終末」なのです。それを聖母マリアはエリサベト訪問の際に聖霊に満たされて、次のように高らかに預言しています。
「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。(ルカ1章51-53節)」
強者と弱者が逆転してしまうのです。これを実現するのが地上的価値観ではない「福音的価値観」です。「福音的価値観」が完全に実現する世界こそが、神の支配する「神の国」なのです。「世の終わり」というのは「地上的価値観による弱肉強食の世の終わり」であって、それは同時に「福音的価値観による神の支配する世」の始まりなのです。
私たちは「終末」というと、つい「破滅」や「終わり」といった側面を思いがちです。むしろ「新たな始まり」の側面に目を向ければ、それを待ち望むことができます。
ただ「終末」がいつ来るかについては、イエスは次のように言われます。
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである(32節)」
イエスご自身でさえも「知らない」と言われるのです。ここでイエスが言いたいことはいつ来るか知ることのできない「終末」について心配したり、考え込んでみても仕方がない、ということだと思います。大切なことはキリストの再臨、神の国の完成に希望を置きながら、今の世を、今日を一生懸命に生きることだと思うのです。
どんなに辛く苦しい時であっても、キリストがいつか再び目に見える姿で来られる、顔と顔を合わせて交わることができる、その日がいつ来てもいいように、恥じることなくキリストの前で顔を上げることができるように、今日という日を一生懸命にキリストの愛にならって生きること、これが「終末」を迎える準備であると思えます。
