カトリック香里教会主任司祭 林和則
第一朗読「列王記上17章10―16節」
預言者エリヤは紀元前9世紀、北イスラエル王国で活動しました。アハブ王の治世でしたが、アハブ王は周辺諸国との経済的交流の促進のために諸外国の神々を導入し、そのための神殿を各地に建造しました。特に王妃であったイゼベルの故国シドンのバアル神礼拝をイゼベルに言われるがままに積極的に取り入れて、国民の間においてイスラエルの神への礼拝と信仰が揺らぐことになるような事態を招いてしまいました。
エリヤもそのためにアハブ王をきびしく糾弾しましたが、王が聞き入れることがなかったので、ついに神の怒りによって干ばつがイスラエルを襲うと宣告します。それは実現し、雨が降らなくなり、大地は干上がり、作物は枯れ、人も動物も飢えと渇きに苦しみます。
エリヤも同様でしたが、神はエリヤに異邦人の土地であるサレプタに行くように命じ、そこで一人のやもめにエリヤの世話をさせると言われました。
今日の朗読箇所のエリヤとやもめの出会いは偶然ではなく、すべては「神の言葉」によって導かれたものであったのです。
ですからエリヤは飢えと死への恐怖に怯えているやもめに「恐れてはならない(13節)」と命じ、その根拠として「なぜならイスラエルの神、主はこう言われる(14節)」と前置きして「壺の粉は尽きることなく 瓶の油はなくならない(同上)」と宣言するのです。
異邦人であるやもめはエリヤを通して語られた言葉が「神の言葉」であると信じたのです。その信仰によってこそ「神の言葉」が実現したのです。
やもめが最後に残っていた「一握りの小麦粉とわずかな油」でパン菓子を作ってエリヤに差し出したのは、本日の福音においてやもめが全財産を神に捧げた行為と通じ合っています。
それはまた聖母マリアが天使ガブリエルによって告げられた「神の言葉」を信じたことに通じています。エリザベトがマリアに「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方はなんと幸いでしょう(ルカ1:45)」と称えたように。
サレプタのやもめも「神の言葉」を信じ、それに自分をゆだねることによって、死を恐れることなく、最後のパンを捧げることができたのです。
第二朗読「ヘブライ人への手紙9章24―28節」
本日の朗読箇所ではエルサレムの神殿を「まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所(24節)」と呼んでいます。「まことのもの」とは先の11節で次のように表現されています。
「人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋」
この「幕屋」が「聖所」であり、「この世のもの」ではない、「天のもの」であり、不完全な「地上(この世)の聖所」に対しての完全な「天の聖所」のことなのです。
このような視点はエルサレムの神殿だけではなく、私たちの「教会」に対しても当てはまると伝統的に教会は考えてきました。私たちの「地上の教会」も「天の教会」の写しにすぎないということです。また「天の教会」は「完全」ですが、「地上の教会」はやはり「不完全」なのです。それは「地上の教会」が「人間の手で造られている」からです。
「造られている」と「ヘブライ人への手紙」に準じて表現しましたが、「教会」は神殿と違って、「建物」ではありません。教会は新約聖書のギリシア語の原文では「エクレジア」であり、「神の民の集会」という意味です。「集会」つまり神の民が集う「共同体」こそが「教会」なのです。
私たちは確かにキリストの洗礼によって「神の民」として頂きました。けれどもやはり弱く、不完全な人間であり続け、絶えず罪を犯し続けています。その不完全な私たちが「造る」共同体ですから「不完全」なのです。人間関係のトラブルや仲たがいが生じてしまいます。
けれども大切なことは、私たちは「旅する神の民」なのです。「旅する」というのは天にある完全な教会に向かって、少しでもそれに近づけるように努力し、歩み続けることです。時に自己主張のぶつかり合いの場に、時に党派争いの場になったりすることもあるでしょう。でも絶望したり、教会から離れたりするのではなく、自分たちが「不完全」であるということから目をそらさないで、ともに神の前でへりくだって赦しを求め、自分たちの力ではなく神の愛に身をゆだねて、「神の民」として歩んで行くのです。
何度つまずいても、失敗してもかまいません。でもけっしてあきらめないこと、絶望せずに希望を持つことが大切です。
なぜならキリストは絶えず天で「神のみ前に立って、わたしたちのために執り成しておられる(24節:フランシスコ会訳)」からです。
福音朗読「マルコによる福音12章38―44節」
「やもめ」は聖書において「孤児」「寄留者」と並んで社会的弱者の代表とされ、弱者を優先される神がもっとも心に留めている人びととされています。
「(神は)孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる(申命記10章18節)」
イエスの時代もそうでしたが、人類の歴史にあってはほとんどの時代、女性は「家」の中でしか生きることができませんでした。男性が支配する封建的な家の中で、男性に従うだけの奴隷的な状況にありました。そのため離縁などによって「家」から追い出されてしまえば、生きていく場所がなかったのです。
またユダヤ社会においては離縁された場合、一方的に女性側に非があるとされ、律法において「罪人」と断罪されてしまい、社会から疎外されてしまうのです。当時のユダヤ社会においてやもめが生きていく道は「物乞い」「娼婦」「妾(めかけ)」の三つしかありませんでした。
本日の福音のやもめは「レプトン銅貨2枚(現在の日本円にして百円程度)」が「持っている物をすべて(44節)」つまり「全財産」であったわけですから、「物乞い」をして生きていたことがわかります。おそらくレプトン銅貨2枚程度が日々の収入で、この日はその全てを賽銭として神に捧げたのです。
ところがイエスはこのやもめこそが「だれよりもたくさん入れた(43節)」と言われます。ここから神は「数値で表される結果」に心を留められないことがわかります。人間は目に見える「数値」という結果で人を判断します。この人が何点取ったのか、何万円を稼いだのかというように目に見える「数」で人を序列化し、評価します。
神は「数」ではなく、その人が「自分の持っている物をすべて捧げる」生き方を評価されるのです。その人が「何をしたのか」「どんな社会的地位に着けたのか」というこの世的な栄光ではなく、どんなわずかな結果であっても、その人が神から与えられた命をどのように生きたのかに心を留められるのです。
この世的に成功したとか、歴史に名を遺したとかいうことなど、神にとっては「どうでもよい」ことなのです。人の目にはささやかに見える人生であっても、その人が自分のためにではなく、神と人のために自分を捧げて生きたのであれば、それを「だれよりもよく生きた」として評価してくださるのです。
そしてこのやもめが生活の不安があったにも関わらず全てを捧げることができたのは、やもめが金銭にではなく、神に信頼を置いていたからです。「寡婦の権利を守る」という「神の言葉」を信じていたからです。
