2024年11月3日 年間第31主日(B年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭 林和則

 

第一朗読「申命記6章2―6節」

本日の朗読箇所の4―5節は、ユダヤ人にとって律法の中でもっとも大切な箇所とされていて、「シェマーの祈り」と呼ばれています。冒頭の「聞け」が、原文のヘブライ語では「シェマー」であるからです。

この箇所を読むと、私にはいつも30年ほど前の記憶がよみがえってきます。当時、私はサレジオ修道会の神学校で司祭になるための養成を受けていましたが、養成担当司祭の一人に石川康輔神父様がおられました。石川神父様は亡くなられましたが、聖書学者で新共同訳聖書の翻訳にも関わられた方でした。

ある時、石川神父様が私たち神学生にエルサレムでの留学時代の思い出話を語ってくださいました。エルサレムでは毎朝7時になると、街中の街頭スピーカーが大音響で「シェマー、イズラエール!」と、この「シェマーの祈り」を一斉に唱え出すそうです。「エルサレムだけでなく、ユダヤ人の一日は「 シェマーの祈り』で始まる」と、石川神父様は感慨深げに語っていました。イエスの時代においても朝夕、「シェマーの祈り」を唱える習慣があったようです。

5節では「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と命じます。3節で「よく聞いて忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、」と言われています。神を全力で愛することは「幸いを得る」ためなのでしょうか。

違います。それでは「神を愛すること」が「幸いを得る」ための「手段」になってしまいます。「神よ、あなたを愛しますから、幸いをください」というように「取引」のための交換条件のようになってしまうのです。逆に言えば「幸い」が与えられないならば「神を愛さない」ということになりかねません。

モーセはこの後の12節で「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないように」と民に命じます。モーセは「「私たちが神を全力で愛するのは、神がエジプトから私たちを救い出されたことで示されたように、まず神が私たちを全力で愛してくださったからだ」と言っているのです。「その神の「 全力の愛』を実感できれば、神への「 全力の愛』が沸き上がらずにはいられないのだ」とモーセは神への感謝に満たされながら語っているのです。

私たちも、自分の人生の中で働き続けてくださる神のわざに深く思いをいたせば、神への「全力の愛」がおのずと湧き上がってくるはずです。

 

第二朗読「ヘブライ人への手紙7章23―28節」

本日も先週の朗読箇所のように、人間の大祭司とキリストの大祭司を比較しながら、キリストの大祭司の偉大さが力説されています。

人間の大祭司は「まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要(27節)」があります。その「いけにえ」は「和解のいけにえ」です。

イスラエルの民は他の多くの民のように、自らの願い事をかなえてもらうためにいけにえを献げることはしませんでした。自らの罪によって神から離れてしまったことを心から悔い改めて、神に和解の恵みを頂き、再び神と結ばれることを願って「いけにえ」を献げていたのです。

けれども不完全な人間にすぎない大祭司は、完全ないけにえを献げることができません。そのために何度でもいけにえを献げなければなりませんでした。

それに対してキリストの大祭司にはその必要がありません。「ヘブライ人への手紙」は、その理由を次のように説明します。

「このいけにえはただ一度、ご自身を献げることによって、成し遂げられたからです(27節)」

キリストは動物のいけにえではなく、ご自身を献げることによって完全ないけにえを献げ、それによって「和解のいけにえ」を完成されたために、もはやそれ以上にいけにえを献げる必要がなくなったのです。キリストは「ただ一度」のいけにえによって、神と人との和解を永遠の完全なものとされたのです。

これを聞いた皆さんの中には次のような疑問を抱かれる方がいるかも知れません。「『ただ一度』と言うけれども、私たちはミサの中でキリストの奉献を何度も繰り返しているではないか。それは許されることなのだろうか?」

まず、私たちがミサの感謝の典礼においてキリストの奉献を行うのは、キリストご自身がご自分の奉献をパンとぶどう酒の秘跡として制定してくださり、それを「わたしの記念としてこのように行いなさい(ルカ22:19)」と弟子たちに命じられたからです。

「記念」は単に「最後の晩さん」という出来事を思い出すだけではなく、「秘跡」とされたことによって、「最後の晩さん」という出来事が聖霊の働きによって「現在化」されて、今ここにそれが「現存」することになるのです。

そして「最後の晩さん」の「聖体の制定」による「キリストの奉献」はやはり「ただ一度」だけなのです。ですから、その「ただ一度」だけの「キリストの奉献」が「記念」される時にも、やはりそれは「ただ一度」だけのものなのです。

私たちは同じミサを毎週「繰り返している」のではありません。ミサが捧げられる度に現在化する「キリストの奉献」も絶えずその度ごとに「ただ一度」だけなのです。仏教的な用語を使えば、私たちは毎回、「ただ一度」だけの「一期一会」のミサに与っているのです。「繰り返し」ではありません。

そのような思いをもって、ある意味「覚悟」をもって、ミサに与って頂きたいのです。

 

福音朗読「マルコによる福音12章28b―34節」

本日の福音では、一人の律法学者がイエスに「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか(28b節)」と問いかけます。それに対してイエスは「第一の掟」として、第一朗読で取り上げられていたユダヤ人が最も大切にしている掟である「シェマーの祈り」を示されます(29―30節)。

さらにイエスは「第二の掟」としてレビ記19章18節に書かれている律法である「隣人を自分のように愛しなさい(31節)」を提示されます。

律法学者が「どれが第一でしょうか」と最高位に位置する「ただ一つ」の掟の教示を求めているのに、イエスは「二つの掟」を示されるのです。これは、実はこの「二つの掟」が切り離すことのできない表裏一体の「一つの掟」であることをイエスは教えようとされているのです。

「神を愛すること」と「隣人を愛すること」が一つの掟であることをもっともよく表現しているのが「ヨハネの手紙一4章20―21節」であると思います。

「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎むものがいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが神から受けた掟です」

ヨハネは「神を愛すること」と「兄弟を愛すること」を分かつことなく「掟」とのみ表現することによって「一つの掟」としているのです。

神は「目に見えない」方なので直接の関りを持つことができません。「愛している」という「言葉」だけでは、具体的な実行の伴わない「偽り」に陥ってしまうことになりかねません。

「神を愛している」という「言葉」の具体的な実行は「目に見える兄弟」を愛することによってはじめて実現する、とヨハネは言いたいのです。

この直前の19節では「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」と書かれています。神は「わたし」だけではなく「わたしたち」を愛してくださっているのです。私たち一人ひとりは皆、神から愛されていることによって「兄弟姉妹」となれるのです。ですから、神に愛されている「兄弟姉妹」を愛さないことは、神の愛に反することになります。

私たちの愛は神の愛に根差しているからです。私たちは「わたし」一人ではなく、「わたしたち」として神の愛に包まれているからです。

イエスはこの愛の掟を最後の晩さんにおいて、さらに高められます。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である(ヨハネによる福音14章12節)」

律法の「自分を愛するように愛しなさい」を「キリストのように愛し合いなさい」と人間的な愛から神の愛に高めたことによって、イエスは「掟」を完成させたのです。