カトリック香里教会主任司祭 林和則
第一朗読「エレミヤの預言31章7―9節」
エレミヤはバビロン捕囚の直前の時期、紀元前600年前後に南ユダ王国で活動しました。ですから本日の朗読箇所の「イスラエルの残りの者(7節)」とはバビロニアの侵略を受け、バビロンに捕囚の民となった南ユダ王国の「残りの者」ではありません。紀元前722年にアッシリアによって滅ぼされ、アッシリアに捕囚として連れ去られた、北イスラエル王国の民の「残りの者」たちです。
その人びとは「目の見えない人も、歩けない人も、身ごもっている女も、臨月の女も(8節)」と言われているように障がい者の人びとや身重の人びとらで、いわゆる社会的には「弱者」の立場にいる人びとです。けれども、だからこそ、生き延びることができたのです。
当時の戦争は敵の国を滅ぼし尽くす「絶滅戦争」でした。そのため、アッシリアも北イスラエル王国の王侯貴族や知識人ら主要な人びとをアッシリアに捕囚として連れ去り、国を再興する力を奪い取ったのです。けれども「弱者」の人びとは「無力な者」として無視されて、生き残ることができたのです。
「このような無力な者たちは生かしておいたところで、何もできはしない」というように。これが人間的な考え方です。「無力な者」を役に立たない者として切り捨てるのです。
けれども神の思いは違います。このような「無力な者」が「大いなる会衆(8節)」となって、神の思いを実現していくのです。
キリストもまた、十字架上において全くの「無力な者」となりましたが、神はその十字架のキリストを通して救いを完成されました。
第二朗読「ヘブライ人への手紙5章1―6節」
本日の箇所では人間の大祭司とキリストの大祭司が比較されています。
人間の大祭司は「弱さを身にまとって(2節)」とありますが、「弱さ」とは悪への傾き、いわゆる「原罪」です。けれどもその「弱さ」を自覚することによって同じ弱さを身にまとった民衆を「思いやる(2節)」ことができるのです。
キリストはそのような「弱さ」を身にまとってはいません。キリストである大祭司が私たちを「思いやる」のは、ギリシア語では「スプランクニゾマイ」、はらわたが痛むほどの憐れみをもって、私たちを愛してくださっているからです。
福音朗読「マルコによる福音10章46―52節」
本日の福音の主人公はティマイの子でバルティマイという盲人です。バルティマイがイエスと出会い、救われて、イエスに従って歩んで行くことになった歩みは、キリスト者の召命の普遍的なモデルになっていると思います。バルティマイの姿に私たち自身の召命を重ね合わせて読んでいきましょう。
まずバルティマイがイエスに向かって盲目の苦しみから「わたしを憐れんでください(46節)」と叫びます。「多くの人びとが𠮟りつけて黙らせようとしたが(48節)」彼はますます「わたしを憐れんでください」と叫び続けます。この「叫び」がイエスを立ち止まらせます(49節)。私たちもイエスに立ち止まって振り向いていただくために、叫ばなければいけません。私たちも霊的に「盲目」だからです。自己中心的な生き方に絶えず捕らわれてしまう私たちは「自分」という暗黒の密室に閉じ込められてしまいがちです。他人との関係の中で人を憎み嫉妬し、時には相手を傷つけおとしめようとし、また欲望に引きずり回されて、飢えた獣のように地位や名誉や富を追い求める、それはまさに暗黒の中に閉じ込められているような生き方です。けれどもキリスト者である私たちは、ぼろぼろになってまで愛のために生きた十字架上のイエスを見上げることができます。その時、その眼差しに見つめられた時、私たちはもうどうしようもない恥ずかしさにおそわれて、思わず叫びたくなるのです。
ミサが始まり、私たちがまず「回心の祈り」を唱えるのはまさに十字架のイエスの前に立って、自分たちの罪を見つめることなのです。自分の罪のみじめさ、イエスのように生きることを望みつつも、罪に引きずられていく自分の弱さ、それを深く見つめる時、私たちは叫ばずにはいられません。だからこそつづいて「主よ、憐れみたまえ」と「叫び」をあげるのです。現在の典礼では「いつくしみを私たちに」ですが、同じ意味です。
イエスは直接、バルティマイに声をかけずに、弟子たちを通して呼びかけます。これはけっしてイエスがもったいぶっているわけではなく、この福音が書かれた初代教会の時代、イエスが天に昇られて目に見えない姿となられたので、目に見える「キリストの体」である「教会」が宣教する状況を重ね合わせているのだと思います。そして弟子たちの呼びかけには、宣教の核心があると思えます。
その言葉(49節)は雨宮慧神父様の翻訳の方がよく味わえると思えます。
「あなたは元気を出し、立ち上がりなさい。彼があなたを呼んでいる(『主日の聖書解釈〈B年〉286頁』教友社)」
宣教が単に教えを伝えるだけであれば、それはその人の人生に何の関りがあるでしょうか。宣教とはその人を元気づけ、立ち上がらせ、人生を生きていく勇気を与えるものでなければ意味がありません。それを可能にするのが「イエスがあなたを呼んでいる」という呼びかけであり、宣教はそれを聞く人にどこまでイ
エスの声を実感してもらえるかということにかかっていると思うのです。その実感こそが、福音を現在化し、その人の人生に響き、動かしていくと思います。
バルティマイが「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに(50節)」行くのは目が見えるようになれるという希望以上に「イエスに呼ばれた」という喜びからであったと思います。このバルティマイの姿から私は旧約のダビデの姿を連想します。サムエル記下6章でイスラエルの王となったダビデが神の箱を自分の王都となるエルサレムに運び上げる時、ダビデは歓喜のあまり上着を脱ぎ捨て神の箱の前で「力の限り踊った(14節)」とあります。けれどもそれを見ていた彼の妻ミカルはダビデをさげすんで、次のように言います。
「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしための前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように(20節)」
これにたいしてダビデは怒ることもなく次のように答えます。
「そうだ・・・だれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう(21-22節)」
私たちがミサで礼拝を捧げることも、神の前で、主キリストの前で「力の限り踊る」ことなのです。私のような者を呼んでくださり、最後の晩さんの記念の食卓に招かれた感謝と喜びから、自分をおおい隠していた偽りを脱ぎ捨てて、ありのままの自分になって、踊るのです。けれどもそれは社会の人びとにとっては愚かなことに見えるかも知れません。せっかくの休日に教会に行って儀式に与っているなどということは。それでいいのです。逆にミサに行く自分を何か、俗世間の人とは違う「エリート」のように思ってミサに参加するよりも、ダビデのように「低い者」となって、こんな自分を招いてくださった神と主イエスのいつくしみに抱きしめてもらえばいいのです。
イエスに抱きしめてもらいながら、私たちも「目が見えるようになりたいのです」と願いましょう。罪の暗闇から神の子として生きる光の中へ「解放されたいのです」と願いましょう。
バルティマイは「すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った(52節)」とありますが「道」とは「十字架の道」です。目が見えるようになったバルティマイは、イエスの十字架へと歩む道に従って行ったのです。
私たちも「目が見える」ようにならなければ、十字架の道に従うことはできません。地上的な価値観や名誉、富を追い求めていては、その真逆にある「十字架」は見えないからです。イエスに目を開いていただいてこそ、私たちは十字架を見つめ、その道を歩むことができるのです。
そのためにもイエスに向かって叫びましょう。そして呼ばれたなら、主イエスの前で力の限り踊って、賛美と感謝を捧げましょう。
