カトリック香里教会主任司祭 林和則
第一朗読「イザヤの預言53章10―11節」
本日の「イザヤの預言」は第二イザヤと呼ばれている預言者の預言です。第二イザヤはバビロンの捕囚期(紀元前586年―539年)の540年代にバビロンで預言活動を行いました。第二イザヤの預言の中心的メッセージはペルシア王キュロスがバビロニアを滅ぼし、捕囚の民は解放されるという未来への希望でした。
もちろん、この預言に対してバビロニア人は激怒し、第二イザヤを迫害しました。同胞であるユダヤ人にとっても、異邦人の王であるキュロスによる解放というのは受け入れがたいものでした。ユダヤ人はあくまでもモーセのような、神の民であるユダヤ人の指導者による解放を望んでいたからです。
第二イザヤを通して神は「キュロスに向かって、わたしの牧者 わたしの望みを成就させる者(44:28)」と呼び、けれども「あなた(キュロス王)は知らなかった(45:4)」と言われます。キュロス王自身はバビロニアを倒すのは自らの意思と力によると考えていますが、実はすべては神のご計画で、キュロス王は神の道具として神に使われているにすぎないというのです。
第二イザヤはこのような神の言葉を受けて預言しますが、それはバビロニア人にもユダヤ人にも受け入れてもらえず、迫害と孤独という苦しみを彼にもたらしました。
このような状況から、迫害に苦しむ主の僕を描いた「主の僕の歌」と呼ばれる四つの預言が書かれたと考えられています。ペトロを初めとする使徒たちはこの預言にキリストの十字架の意味を読み取り、その解釈が教会の伝統となり、四旬節の典礼にキリストの苦難を偲ぶための朗読箇所として用いられています。
ただ第二イザヤ自身にはキリストはまだ啓示されてはおらず、自分自身の姿を重ね合わせていると考えられます。
人間にとって不条理な苦しみ、意味の見出せない苦しみは耐えがたいものです。第二イザヤが受けた苦しみもそのようなものでした。第二イザヤは自分の思いや考えではなく、神から受けた言葉を語っているだけなのに、人びとから理不尽な迫害を受けているのです。そのため、第二イザヤは「「主の僕の歌」を通して、苦しみの意味を見出そうとしていると思えます。
「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った(11節)」
第二イザヤは祈りの中で、自らの苦しみを「償いの献げ物(10節)」として神に献げます。それを通して、多くの人の罪が償われて、神と和解させて頂くということに、第二イザヤは自らの「苦しみ」の「意味」を見出したのです。
第二朗読「ヘブライ人への手紙4章14―16節」
本日の朗読箇所では、イエスを「大祭司」と呼んでいます。これは「ヘブライ人への手紙」だけがイエスに冠している称号で、パウロら他の書簡ではイエスを「大祭司」と呼ぶ例は見られません。
ひとつにはこの手紙が「ヘブライ人」すなわち「ユダヤ人」に宛てられた書簡と考えられていたように、この書簡ではユダヤ教の礼拝、祭儀が重要視され、その中心であった神殿における「和解のいけにえ」の儀式が特に重視されているからであると考えられます。
紀元70年、ローマ軍のエルサレム侵攻によって神殿は破壊され消滅してしまいました。それから現在に至るまで神殿は再建されず、「和解のいけにえ」もユダヤ教では行われてはいません。
それを「ヘブライ人への手紙」ではイエスご自身が生きた神殿となり、動物のいけにえではなく、ご自身をいけにえとして献げることによって、ユダヤ教の「和解のいけにえ」の儀式を新たにし、完成してくださったと考えるのです。
「(キリストは)世の終わりにただ一度、ご自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました(9:26)」
これが「最後の晩さん」における「聖体の制定」であり、キリストが「わたしの記念としてこのように行いなさい(ルカ2:19)」と言われた命令を守って教会は、叙階の秘跡によって大祭司キリストの霊を受けた司祭の手を通して、「最後の晩さんの記念」である「ミサ」を行い続けているのです。
それはまたキリストがミサを通して、私たちのためにご自分を「「和解のいけにえ」として献げ続けてくださっていることにほかなりません。
福音朗読「マルコによる福音10章35―45節」
本日の朗読箇所の直前の箇所(10章32―34節)でイエスは三度目の受難予告を弟子たちにしています。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する(10:33―34)」
この受難予告の直後にヤコブとヨハネの兄弟が進み出て「栄光をお受けになる時、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください(37節)」とイエスに願うのです。「右、左」とは日本の近代までの朝廷の制度で言えば「右大臣、左大臣」に当たります。
「栄光をお受けになる時」の「栄光」とは、イエスがメシアとしてユダヤの王になって、ローマの支配からユダヤを解放し、さらに神の民として全世界を支配することを実現してくださる「「メシアの栄光」です。それは当時のユダヤ人が待望していたメシアの姿でした。
ヤコブとヨハネはイエスがその「栄光」の座につく時、十二使徒としてイエスから選ばれた自分達も権力の中枢につけることを期待して、このような願いをしているのです。それを聞いた他の十一人が怒るのも、二人の露骨な権力欲に対してではなく、同じ野望を抱くものとして「抜け駆けをするな!」という思いからなのです。
このような弟子たちの権力欲を示している箇所を「だれが一番えらいか」というモティーフ(主題)として、ひとくくりにして考えられています。マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書では「だれが一番えらいかで議論し合っていた」という表現が何度も出てきます(たとえばマルコ9章34節)。
このモティーフは弟子たちがイエスを信じ、自分を完全に捨てた「無私」の思いでつき従っていたのではなく、どこかでイエスに従っていれば権力を手にすることができるという利己的な野望を抱いていたことを示唆しているのです。
ただ言えることは、これは初代教会の指導的立場にあったヤコブとヨハネをはじめ使徒たちにしてみると、非常に不名誉なことです。ですから自分たちの立場を使って「隠ぺい」することもできたでしょう。それが福音書を編集するための資料として用いられたように、教会の中に伝承されてきたことは使徒たちがそれを書き残すことを許容したからであると考えられます。
使徒たちにしてみると、ひとつにはイエスに対しての慚愧の思いからであったと思います。今日のヤコブとヨハネの願い、しかも「受難予告」の直後にのうのうとこのような願いを申し出て来る二人の態度にイエスは怒りを通り越して、悲しみを感じていたのではないのでしょうか。エルサレム、十字架へと向かう道行きに使徒たちは「体」は従っていても、「心」はイエスの思いとは全く逆の方向に向かって歩んでいました。「十字架」ではなく、この世的な「栄光」に向かって歩んでいたのです。
イエスはたったひとりぼっちで十字架への道を歩んでいたのです。どれだけ孤独であったでしょうか。それでもイエスはユダでさえも切り捨てることなく、使徒たちを愛し続けました。けれどもイエスが逮捕された時、使徒たちはイエスを捨てて逃げ去ってしまったのです。
そのような自分達への自戒と信徒たちへの教訓として、このモティーフをむしろ積極的に伝えようとしたのだと思えます。
私たちもどこかで「栄光のイエス」を見てはいないでしょうか。それは現代の日本にあっては、明治維新以来、あこがれ続けた西洋文明の象徴としての「イエス」です。青い目をした、金髪の美しい姿です。
私たちは十字架に向かうイエスに従って行くために、絶えず「十字架のイエス」のみじめなどん底の姿を見つめ続けなければなりません。
