2024年10月13日 年間第28主日(B年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭 林 和則

 

第一朗読「知恵の書7章7―11節」

「知恵の書」は紀元前一世紀、エジプトのアレクサンドリアでギリシア語を話すユダヤ人によってギリシア語で書かれました。ヘブライ語で書かれていないために旧約聖書の続編に組み込まれています。

当時のローマ帝国のアレクサンドリアやアンティオキア、ローマなどの大都市にはユダヤ人の居住地がありました。それは「散らされた」ためではなく、ユダヤ人自らが商売のために移住して行ったのです。

ユダヤ以外の地に住むユダヤ人はギリシア語を話し、ヘレニズム文化の真っただ中で暮らしていました。そのためにユダヤ教から離れるユダヤ人も少なくはありませんでした。

「知恵の書」の作者はそれを憂慮して、聖書の中にこそ、真の知恵、神の知恵があるということを知らしめるために、この書物を書いたと考えられます。

「知恵の書」は三部構成になっていて、本日の箇所は第二部に当たります。第二部ではソロモン王自らが語るという形式になっています。ソロモン王は自らの富や名声を求めず、民の声を正しく聞き分ける知恵を神に求めたことによって「知恵の王」ともたたえられています。

「知恵の書」の特徴は知恵を擬人化していることです。教会ではこの人格化された「知恵」をキリストと解釈して読み込むようにしてきました。皆さんもぜひ、今日の朗読箇所の「知恵」を「キリスト」に置き換えて読んでみてください。

そうすると8節後半は「キリストに比べれば、富も無に等しい」、10節後半は「キリストの手の中には量り難い富がある」となり、本日の福音の「全ての富を捨ててキリストに従う」という内容と響き合うのです。

 

第二朗読「ヘブライ人への手紙4章12―13節」

本日の朗読箇所では、以下のように書かれています。

「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです(13節)」

ここでは創世記のアダムとエバの物語が意識されていると思えます。

アダムとエバは神との約束を破って「食べてはいけない」とされていた果実を食べてしまいます。その結果、二人は自分たちが「裸」であることを知り、「裸」を覆い隠そうとします(創世記3章より)。

ここでは私たち人間の普遍的な本質が、神話的な物語によって明らかにされています。「裸」はありのままの自分であり、それは弱く、欠点によって一部が欠けていて、また、犯した罪によって多くの汚れがついてしまっている、見すぼらしい「恥ずかしい」姿です。そのため、私たちはそんな「裸」を覆い隠そうとして、地位や名誉や財産によって自分を飾りたてようとします。ありのままの自分をこの世的な栄光によって輝かそうとします。

けれどもそれらすべては、神の御前に立てばはぎ取られ、ありのままの自分がさらけ出されてしまうのです。

地上的な富や名誉ではなく、「神の言葉」を生きることによってこそ、私たちは「ありのままの自分」を神の光によって輝かせていただくことができるのです。

 

福音朗読「マルコによる福音10章17―27節」

本日の福音でイエスの前に現れるのは 「ある人」とされていますが、マタイの並行箇所(19:16-30)では「青年」、ルカの並行箇所(18:18-30)では「議員」とされています。ただ、イエスにひざまずいて教えを乞ういちずな姿から「青年」というイメージがもっともふさわしいように思われます。

まず、イエスが「旅に出ようとされると(17節)」で始まりますが、この「旅」は単なる「旅行」ではありません。エルサレムへ向かう旅、すなわち「十字架」へと向かう旅でした。十字架への歩みの第一歩を踏み出そうとされたイエスの前に青年は現れたのです。

彼はイエスに「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか(17節)」と問いかけます。イエスは「殺すな、姦淫するな・・」とモーセがシナイ山で神から受けた 「十戒」を彼に示します。すると彼は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました(20節)」と答えます。

それを聞いたイエスは「彼を見つめ、慈しんで言われ(21節)」ます。

「行って持っている物を売り払い、貧しい人びとに施しなさい(同上)」

けれどもそれを聞いた青年は「悲しみながら立ち去った(22節)」のです。

青年を見送ったイエスは弟子たちに「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか(23節)」と言われます。これは青年を責めているのではなく、青年のいちずさを思い、彼の悲しみを思って、彼のために嘆いておられるのだと思います。

イエスは青年への要求が非常に困難を伴うことをわかっておられたのです。だからこそ、「彼を見つめ」「慈しんで言われた」のです。「慈しんで」と新共同訳では翻訳されていますが、ギリシア語の原語では「アガパオー」です。「アガパオー」は「アガペー」の動詞形なのです。福音書において「アガペー」は人間の愛ではなく、神の愛を表す言葉です。

青年にとって大きな困難を伴う要求をするに当たって、イエスは 「神の愛」で彼を包み込もうとされたのです。それによって困難な選択を迫られる彼に寄り添い、助けようとされたのです。

「大丈夫だ。私がいつもあなたと共にいるから」というように。

けれども青年はイエスの愛に気づくことができませんでした。それは彼にとって大きな恐怖を伴う選択であったからです。彼は生まれた時から裕福な環境の中で育ってきて、それ以外の生活環境を知りませんでした。そんな彼にとって自分を取り巻いていた環境を全て捨て去ることは、身ぐるみはがされて「裸」にされた状態で未知の世界に放り込まれるような恐怖を感じたことでしょう。その「恐怖」がイエスの愛を覆い隠して見えなくしてしまったのです。

ただ、これから十字架に向かおうとされるイエスに従うためには、それほどの覚悟と決断が必要であり、イエシは要求せざるを得なかったのです。

青年はその覚悟と決断の前に恐れおののいてしまい、イエスに背を向けて立ち去って行きました。「気を落とし、悲しみながら(22節)。」それは「善い先生(17節)」と慕っていたイエスの招きに従うことのできない自分の弱さに対してであったと思います。逆に、もし青年が財産を持っていなければ、イエスに従うことは可能であったろうと思えます。だからこそイエスは「財産のある者が神の国に入ることは難しい」と言われ、青年を惜しまれたのです。

弟子たちはそれを聞いて驚きます。当時のユダヤ教は因果応報的な考えが強く、しかもその「報い」を地上的な価値で捉えていました。ですから「金持ち」は善いことをした「報い」として神から財産を与えられたと信じられていました。「金持ち」こそが「神の国」に入る資格を有するものであるとされていたのです。逆に言うと「貧しさ」は罪を犯した「報い」であり、「貧しい者」は「神の国」に入るのは難しいと信じられていたのです。

それに対してイエスは「彼ら(弟子たち)を見つめて(27節)」言われます。

「人間にできることではないが、神にはできる(27節)」

「彼らを見つめて」はイエスが先に青年に選択を迫る時に「彼を見つめ(21節)」と同じ表現です。それによって27節のイエスの言葉は先の青年を念頭に置いて語られた言葉であると考えることができると思います。

「人間」とは「青年」を指していると思うのです。イエスは 「彼は終わった」とは考えていないのです。イエスの愛はけっして取り消されることはありません。イエスは青年をご自分の「アガペー」で包み込みました。それはこれからも青年の人生の旅路を包み込んで行き、絶えずイエスは彼の人生を通して何度も何度も彼を「招き」続けられるのです。

そしていつかきっと、神の助けによって青年がイエスの招きに応えることができる、という希望をイエスは語っているのだと思います。

青年が自分の力ではなく、自分を包み込んでいるイエスの愛に気づいて、自分をゆだね切ることができた時、イエスに従う日が来るのです。