カトリック香里教会主任司祭 林 和則
第一朗読「創世記2章18―24節」
創世記2章の人類創生の物語、アダムとエバの物語は神話的な枠を用いて表現された「神学的人間論」と呼ぶべき内容です。「人間とは何か」を「神学的」に考察しているのです。その大きな主題は、人は神から命を与えられ神によって生かされていること、そして「人が独りでいるのは良くない(18節)」ことであって、他者と共に助け合って生きる存在であるということです。
本日の箇所では男性に続いて女性が創造されます。
ただ新共同訳による「彼に合う(18節)」という翻訳は誤解を招きかねないように思えます。これでは「男性」が中心であって「男性に合う」もしくは「男性にふさわしい者」として、 「女性」が「男性」の従属的な存在として創造されたというイメージを与えてしまうのではないかと危惧するのです。
原典のヘブライ語を直訳すると以下のようになります。
「目の前にある者として、助ける者を造ろう」
「目の前にある者」つまり男性と女性はお互いに 「顔と顔を合わせて向き合う者」として創造されたということです。それは対等な、対話する関係であることを表しているのです。
本日の箇所の最後の言葉「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる(24節)」は人類の歴史上において「男女平等の思想」が初めて文字にされた箇所であると思われます。
「アダムとエバの物語」はおよそ3000年ほど前に書かれたと考えられています。今でこそ、「父母を離れて」「二人は一体」というのは結婚の当たり前な形であるとされていますが、当時は「あり得ない」ことだったのです。
当時は家父長制による大家族制度で家父長が絶対的権威を有していた封建的な「家」でした。そしてひどい男尊女卑が社会に行き渡っていました。日本でも近代に至るまでそうであったように女性は男性とではなく「家」と結婚するようなものでした。その「家」にあっては女性はまず「子孫を生む道具」であり、奴隷的と言ってもよい立場にありました。ですから「父母(家)を離れて」「二人は一体」というような結婚はあり得なかったのです。
この物語の記者が何を言いたかったのかというと、ここに書かれている「結婚」こそが神が本来望まれていたものであったということです。そのために「世の初め」という設定を用い、その後の人類の歴史の過程において、当時のような封建的な男尊女卑の「結婚」に人類が自らの手で「歪めてしまった」のだと聖書記者は訴えているのです。
「二人は一体」というのは男女の関係が「平等」であって初めて実現できます。身分的な格差や差別があれば「一体」になることはできないからです。
3000年前にあって当時の時代の常識をはるかに越えた、このような発想が人間から生じることは不可能ではないかと思えます。このような箇所を読む時、神が様々な手段を用いて、このような発想を聖書記者に与えたとしか思えないのです。
だからこそ人間が書いたものであっても「聖書」は「神のことば」なのです。
第二朗読「ヘブライ人への手紙2章9―11節」
「ヘブライ人への手紙」は紀元90年ごろに書かれたとされています。作者についてはバルナバ、アポロなど種々の説がありますが、特定はされていません。
内容は、イエスは神の子であり、イエスこそがメシア(救い主、キリスト)であることを説明し、その信仰に踏みとどまって迫害に耐えるようにと信徒を励ましています。
まず詩編8番の言葉を用いてイエスを「『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた』イエス」と表現します。
「天使たちよりも低い者」とは「人間」を指しています。イエスは本来 「神の子」であるので、天使たちよりも高い位置にある方でした。それが人間として生きてくださった33年の 「わずかの間」、天使たちよりも「低い者」となってくださったのです。それは私たちを救うためのへりくだりでした。
「人を聖なる者となさる方(11節)」はイエスであり、「聖なる者とされる人たち(同上)」はキリストの洗礼を受けて、聖なる者、神の子とされた私たちキリスト者です。私たちが「神の子」となったことを、イエスは私たちを「兄弟と呼ぶことを恥とされない(同上)」ことによって証してくださるのです。
それによって、イエスも私たちも「父である神」という「一つの源から出ている(同上)」という恵みが与えられたのです。
「主の祈り」を唱える時、イエスと心を合わせて「わたしたちの父よ」と神に呼びかけましょう。
福音朗読「マルコによる福音10章2―12節」
イエスは本日の第一朗読の創世記の箇所に基づいて男女の結婚について語られます。
まず男女の創造に当たっては、本日の創世記2章からではなく1章の表現を使われます。
「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお創りになった(6節)」
これは創世記1章27節の「男と女に創造された」に基づいています。2章では男(アダム)が先に造られたとなっていますが、1章では男と女が並列されていて、同時に造られたとされています。この表現を用いることによって、神は男女を平等な存在として造られたということを、イエスは強調されているのです。
7節から8節では創世記2章に書かれていた、神が本来望まれていた男女平等に基づいた結婚の在り方を踏襲されていますが、それにイエスは独自の言葉を9節に付け加えられます。
「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」
結婚は本人同士の意思を越えて、神のみ旨、ご計画によって成立するものであるということです。「越えて」というよりも、「神の思いに包まれて」ふたりは結婚すると言った方がいいでしょう。
このイエスの教えが、カトリック教会が離婚を禁じる根拠になってきました。
ただこの箇所における文脈ではイエスは「離縁」そのものよりも「夫が妻を一方的に離縁すること」に重きを置いていると思えます。
イエスの生きた当時のユダヤ社会においては、夫の側だけが妻を離縁することができました。妻の側からはできなかったのです。しかも理由もなく、妻に落ち度がなくとも、夫の勝手な思いで一方的に離縁することができたのです。
またその責任も一方的に妻に押しつけられ、離縁された女性は「罪びと」とされて社会から疎外されました。
さらに当時のユダヤ社会にあっては女性の働く場はありませんでしたから、離縁されて「家」からも社会からも追放された女性が生きて行く術は三つしかありませんでした。「物乞い」「娼婦」「めかけ」です。そのいずれもが律法において「罪びと」とされ、離縁された女性は「罪」の名のもとに二重、三重の差別によって、がんじがらめにされていました。
「離縁」は女性の人権をはなはだしく踏みにじる、重大な女性差別であったのです。
ですからイエスは「離縁」そのものよりも、当時のユダヤ社会にあった「夫の側からの身勝手きわまる離縁」によって引き起こされる「妻」という立場の女性へのはなはだしい人権侵害、女性を疎外し、生きて行く術を奪う、社会の構造的な差別に憤り、それを禁じたのです。
*なお、12節において「夫を離縁して他の男を夫にする者(妻)も」というように妻の側からの離縁についても述べられていますが、これは後の教会による書き加えであると考えられています。なぜならば、ローマ帝国の法においては妻が夫を離縁することも可能であったからです。ですからローマの法のもとに生活していたギリシアやローマの教会の信徒に対しての配慮から書き加えられたものであると考えられます。
