2024年9月29日 年間第26主日(B年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭 林 和則

 

第一朗読「民数記11章25―29節」

神に与えられた使命によってモーセがエジプトに行き、イスラエルの民をエジプトから導き出し、荒れ野をさまように至るまで、神のことばを聞きそれを民に伝える、いわゆる「預言者」の役割はモーセただ一人に与えられていました。

それが今日の朗読において、モーセ一人だけではなく、「モーセに授けられている(預言する)霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられ(25節)」ます。

彼らはその霊によって預言を語り始めました。その状況に接してヌンの子ヨシュアはモーセのもとに「走って行き(27節)」、「わが主モーセよ、やめさせてください(28節)」とおそらく息せき切って訴えます。

ヨシュアは「若いころからモーセの従者(同上)」でした。おそらくモーセを心から慕い敬っていました。そんなヨシュアにとって、神と語り合う「預言者」という輝かしい役割はモーセひとりだけのものであってほしかったのです。

そのヨシュアに対してモーセは「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか(29節)」と言います。これは叱責ではありません。ヨシュアの自分を敬慕する思いを十分にわかっているモーセは、いつくしみをこめて教え諭そうとしています。美しい師弟愛が感じられる言葉です。

モーセはヨシュアにこう語りかけます。

「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ(同上)」

モーセのこの態度はすばらしいと思います。私たちはしばしば自分の与えられている役割や地位を自分だけのものとして独占したくなります。その役割や地位に執着し、それをおびやかすような人を排除しようとします。そしていつのまにか、その役割や地位に縛られて、その「奴隷」になって行ってしまうのです。

けれどもモーセは自らの役割や地位に縛られていません。その手にしているものを全ての人に分かち与えようとする「開かれた心」で生きています。

それはモーセが自分を「神の僕(しもべ)」に過ぎないと見なしているからです。

自分の地位や役割は「自分のもの」ではなく「神から与えられたもの」であり、自分は神の道具、「奉仕者」にすぎないと自覚しているからです。

私たちも社会において、また教会の中において与えられている役割や地位をあくまでも「神から与えられたもの」として、その役割を果たすことによって神と人びとに奉仕し、いつでもそれを手放せる、開かれた心でいましょう。

それでこそ、キリストが絶えず弟子たちに言われていた「仕える者」となることができるのです。

 

第二朗読「使徒ヤコブの手紙5章1ー6節」

ヤコブの手紙は紀元100年ごろ、ギリシアもしくはローマの教会の指導者が信仰養成のために信徒に書き送った手紙と考えられています。

本日の箇所からわかることは、当時の教会共同体の中に経済的な格差が生じていたことです。しかもそれは当時の、中間層が存在しない富裕層と貧困層という極端な格差社会の状況が教会の中にも反映されていたようです。豊かな者は「宝を蓄え(3節)」「ぜいたくに暮らして、快楽にふけり(5節)」、貧しい者に賃金を支払わず、当時の裁判制度を利用して冤罪を着せ、殺します。このような非道な行為がまかり通るのは、豊かな者が貧しい者に対して絶対的な有利な立場にあり、好きなようにできるほど、社会的地位においても大きな格差があったということを示しています。貧しい者たちは「抵抗(6節)」することができない状況に追いやられていたのです。

このような豊かな者たちに対して当時の教会の指導者は「あなたがたの肉を火のように食い尽くす(3節)」と宣告します。

この表現は本日の福音朗読の後半部分のイエスのことば「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない(マルコ9:48)」に基づいていると思えます。

貧しい者を苦しめることはイエスが言われる「小さな者の一人をつまずかせる(同9:42)」ことであり、それが「地獄」という決定的な裁きにつながって行くのだと、豊かな者として教会の中でも尊大にふるまっている信徒たちに向かって宣告を下しているのです。

 

福音朗読「マルコによる福音9章38―43、45、47―48節」

本日の福音は前半と後半に分けることができます。38節から41節までが前半、42節から48節までが後半です。

前半部分においてヨハネが、イエスの名を使って悪霊を追い出していた者をやめさせようとします。この行為は第一朗読におけるヨシュアのように、師であるイエスヘの敬慕の念から「イエスのためを思ってねたむ心を起こしている」からでしょうか。

違います。確かにヨハネはイエスを何者にも代えがたい師として敬慕していたでしょう。けれどもここにおいてイエスの名前を使うことをやめさせようとしたのは「わたしたちに従わない(38節)」ためだったのです。

確かにヨハネたち十二使徒はもっともイエスに近く、絶えず行動を共にしていましたが、それを自分たちの「特権」のようにかん違いしてしまったのです。そこから、自分たちだけが「イエスの名を使うことができる」という特権意識が生じて来ました。

ですから自分たち以外の者が「イエスの名」を使うことを許さず、もし使うのであれば自分たちに許可を得て、自分たちに従わなければならないと思い込んでいたのです。ヨハネは「イエスの名」を独占する権利が自分たちにはあると思い込み、いつの間にか、「イエスの名」を自分たちの「権威」を裏付けるための「道具」にしていたのです。

「十二使徒」が一種の「派閥」のような閉鎖的なグループになり、その中にイエスを閉じ込めようとしたのです。このようなヨハネの態度を私たちは笑えないと思えます。私たちもどこかで「イエス」を「教会」の中に閉じ込めて「自分たちだけのもの」としてしまってはいないでしょうか。

イエスは広大な天空のように全世界をその愛で包み込む方です。教会の中だけでなく、イエスは全世界の人をご自分の愛の中へと招いておられます。私たちはイエスに仕える者として、その愛を地域の人びとへと伝えて行くのです。「イエスの名」を閉じ込めるのではなく、人びとに伝えて行くのです。そのためにも教会は「開かれた教会」であらねばならないのです。

 

後半部分においては第二朗読の説明で申し上げたように「地獄」という言葉をイエスは何度も繰り返されます。

この「地獄」と翻訳された言葉はギリシア語の原文では「ゲヘンナ」です。それは本来はエルサレムの南西にあった「ヒンノムの谷」を指す固有名詞でした。

ヘブライ語では 「ゲー・ヒンヌーム」で、ギリシア語では「ゲヘンナ」と表記されました。「ヒンノムの谷」では古代から幼児を焼いていけにえとする異教祭儀が行われていて、南ユダ王国においても紀元前8世紀から7世紀にかけて行われたという記録があり、これを預言者エレミヤは厳しく断罪し、この祭儀を行うことによってユダの国は亡びるという最終的な裁きにつなげたことから、この谷の名が「地獄」という意味合いを有するようになりました。

けれども四つの福音書全体では「ゲヘンナ=地獄」が使われているのは「14回」だけです。この回数は他の言葉の用例から比較して、明らかに少ないのです。

それはイエスがこの言葉をあまり口にされていなかったことを意味します。

実際、今日の箇所をよく読んでみると、ポイントは「地獄」ではないと考えられます。イエスの言いたいポイントは「小さな者をつまずかせることがいかに罪深いことであるか」であると思えるのです。「地獄」はその罪深さを強調するためのいわば「述語的表現」であって「主語」ではないのです。

この箇所の「えぐり出しなさい(47節)」というような激しい表現からは「小さな者をつまずかせる者」へのイエスの激しい怒りを感じ取ることができます。

それはまた、イエスの「小さな者たち」への激しい愛を表現しているのです。

私たちはこの箇所から「地獄」の恐ろしさではなく、イエスの「小さな者たちへの愛」を読み取るべきです。