2024年9月22日 年間第25主日(B年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭 林 和則

 

第一朗読「知恵の書(2章12、17―20節)」

「知恵の書」は紀元前一世紀に、エジプトの首都であったアレキサンドリアでユダヤ教の指導者、おそらくはラビによって書かれたと考えられています。アレキサンドリアをはじめローマ帝国の支配圏内の大都市には多くのユダヤ人が居住し、主に商業を営んでいました。それらの大都市にはヘレニズム文化が浸透していて、多くのユダヤ人もその影響を受けていました。そのような状況にあって、改めてユダヤ教の知恵のすばらしさを教えようとして、ギリシア語によって書かれた書物です。ですから旧約聖書の続編に組み入れられています。

本日の朗読箇所の冒頭の「神に逆らう者」の人生観が直前の2章1節から5節まで、彼らの言葉として以下のように語られています。

「我々の一生は短く、労苦に満ちていて、人生の終わりには死に打ち勝つすべがない・・我々は偶然に生まれ、死ねば、まるで存在しなかったようになる・・我々の一生は薄れゆく雲のように過ぎ去り、霧のように散らされてしまう・・」

これらの言葉は、一般的な日本人には共感を呼び起こすのではないかと思えます。そこには「無常感」があり、「無常感」は日本人の感性の奥底に絶えず流れている通奏低音のようなものであると思うからです。

けれどもこの「無常」な人生にどのように向き合うかが問われるのです。

「神に逆らう、神を信じない者」たちは「快楽主義」に走るのです。

「だからこそ目の前にある良いものを楽しみ、青春の情熱を燃やしこの世の楽しみをむさぼろう・・どこにでも歓楽の跡を残そう(6―9節より)」

快楽主義には倫理も道徳も無視されますので、「力」こそが正義になります。

「力こそ、義の尺度とするのだ(11節)」

そして弱い者を踏みにじり、搾取するのです。

しかし、私たち「神を信じる者」はそうであってはいけません。

まず、この世に、人生において生じることは「偶然」ではありません。全ては神の御手の中にあり「摂理」なのです。全ての出来事は神から来て、私たちへの神の思いが、メッセージが、その中に込められています。ですから私たちは絶えず出来事の中に「神の思い」を探し求め、「神の思い」に従って生きるのです。

この世界と人生はただ過ぎ去って行くだけのむなしいものではありません。

全ては神の「恩寵(恵み)」の目に見えるしるしなのです。そのためには目に見えるもの、出来事を「しるし」と考えて、そこに込められた目に見えないもの、「神の思い」を探し求めることが大切です。その見えないものを見つめるためには、私たちの霊性を深めなければなりません。

 

第二朗読「使徒ヤコブの手紙(3章16節―4章3節)」

ヤコブの手紙はヤコブ本人の手紙ではなく、紀元前100年頃のギリシアかローマの教会の指導者が信仰養成のために当時の信徒にあてて書かれた手紙であると考えられています。

本日の朗読箇所を読んで、紀元一世紀の初代教会においても、現代の私たちの教会のように「争い」いわゆる人間関係のトラブルがあったことがわかります。

指導者は「争い」の原因は「ねたみや利己心(3:16)」にあると言います。「利己心」は自己中心的であり、本日の福音にあるように「いちばん偉い者」「いちばん先の者」になろうとします。そして自分が「いちばん」になれない時、「いちばんの人」に「ねたみ」を抱くのです。そこから「混乱やあらゆる悪い行い(3:16)」が生じると言うのです。そこにあるのは「神」ではなく「自分」です。

それに対して「上から出た知恵」つまり「神から出た知恵」は「憐れみと良い実に満ちています。(3:17)」「良い実」とは「義の実(3:18)」であり「平和を実現する人(同上)」たちによってこの世界に蒔かれて「平和」を実らせるのです。

この教えにはマタイの福音書の山上の説教での「まことの幸い」の中の 「平和を実現する人は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる(5:9)」が響いていると思います。

私たち不完全な人間の集う教会共同体に「争い」が生じることは避けられません。けれどもその度ごとに、許し合い、受け入れ合うことによって、教会共同体に「平和」をもたらす努力が大切です。それは人間関係の問題ではなく、神の知恵、神の思いに従って生きるという信仰の問題なのです。

そのためには本日の福音書でイエスが弟子たちに言われたように、一人ひとりが「仕える者」になる努力をあきらめずに続けることが大切です。

 

福音朗読「マルコによる福音9章30―37節」

先週の朗読の「マルコによる福音」では最初の受難予告が告げられました。 今週の朗読はそれに続いて、イエスが再び受難予告を告げる箇所です。

イエスと弟子たちのガリラヤ地方での宣教の拠点はカファルナウムにあり、居住していた「家(33節)」もあったようです。帰宅したイエスは弟子たちにお尋ねになります。

「途中で何を議論していたのか(同上)」

それに対して弟子たちは黙っていましたが、福音書記者は地の文で次のように弟子たちの話していた内容を読者に知らせます。

「途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていた(34節)」

この「だれがいちばん偉いか」はマタイ・マルコ・ルカの共観福音書にたびたび出て来るモティーフ(主題)です。このモティーフによって福音書記者たちは、弟子たちがイエスにつき従っていたのは、イエスへの純粋な帰依の心によってだけではなかったということを読者に知らせようとしています。

確かに弟子たちはイエスを「メシア」であると信じていました。けれどもその「メシア」はユダヤを通して全世界に君臨する、地上的な 「栄光のメシア」であったのです。その「メシア」につき従う「側近」のような存在になっていれば、イエスが「王」になった時、自分たちは「大臣」のような権力を手に入れることができるという権力への欲望からイエスにつき従っていた面があったのです。

それをもっとも露骨に表現しているのが、マルコによる福音10章37節のヤコブとヨハネの兄弟のイエスへの願いです。

「(イエスが王としての)栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」

これはまさに「私たちを右大臣に、左大臣にしてください」という願いです。

このような「だれがいちばん偉いか」というモティーフではイエスは必ず弟子たちに「仕えるものになれ」と教えます。本日の朗読でもそうです。

「すべての人に仕える者になりなさい(35節)」

 

そして今回のモティーフではイエスは「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われ(36節)」ます。「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである(37節)。」

この「子供」はもちろん実際の子どもも含められていますが、当時の社会的弱者を代表する者として、イエスは語っていると思えます。当時のユダヤ社会においては子どもは女性と共に社会から人権を認められていませんでした。人数を数える際に子どもと女性を除外していたことが、それをよく表しています。

子どもを通して「全ての社会的弱者を受け入れる者が私を受け入れる者である」とイエスは言われているのです。この言葉はマタイの福音書の「最後の審判のたとえ」の中の次の言葉と同じメッセージであると思います。

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(25章40節)」

本日の朗読箇所ではイエスは「子供」を「最も小さい者」を代表する者として「真ん中に立たせ、抱き上げ(36節)」られたのです。

イエスは今日、本日の福音を通して、私たちの教会共同体の真ん中に「最も小さな者」を立たせ、抱き上げられました。そして、次のように私たちに語りかけておられると思えます。

「教会にあっては偉い人、強い者が『真ん中』に立つのではなく、最も小さな者を『真ん中』に立たせ、共同体みんなで抱きしめて、大切にしなさい。

これこそが私の望む教会の姿なのだ」