2024年9月15日 年間第24主日(B年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭 林和則

 

第一朗読「イザヤの預言50章5―9a節」

本日の「イザヤの預言」は「第二イザヤ」と呼ばれている預言者で、バビロンの捕囚期に活動しました。第二イザヤには「主の僕の歌」と呼ばれている預言があり、本日はその第三の歌に当たります。

キリスト教では「主の僕の歌」に描かれている苦しむ主の僕の姿にキリストの受難の姿を重ね、第二イザヤの本来の意図を越えて、ここにはキリストの受難の意味が預言されていると解釈しています。本日の福音がイエスの最初の受難予告であることから、この箇所が選ばれています。

 

第二イザヤの本来の意図としては、ここで迫害を受けている僕は第二イザヤ自身のことであろうと考えられています。第二イザヤはやがてペルシアの王キュロスがバビロニアを滅ぼしてユダヤの民を解放するという預言を公けに語りましたので、当然ながらバビロニアの人びとから迫害を受けました。

ただ本日の朗読箇所は5節から取られていますが、実は直前の以下の4節が今日の朗読箇所全体を意味づける重要な箇所なのです。

「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え

疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。

朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし弟子として聞き従うようにしてくださる」

「朝ごとに」第二イザヤは神に耳を傾ける、祈りの時間を持っていたのです。毎朝の「祈り」の時間こそが6節からの迫害に耐える力と「主なる神が助けてくださる(7節、9a節)」という確信を第二イザヤに与えていました。

イエスも宣教のための多忙な日々の中にあっても「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた(マルコ1:35)」のです。イエスにとっても十字架へと向かう旅路にあってイエスを支え続けたのが、朝ごとの祈り、神との対話であったのです。

私たちも人生の旅路を信仰をもって歩むためには「朝ごとの祈り」が大切です。

毎朝のミサに出ることは多くの皆さんには困難なことでしょうから、毎朝のミサの朗読箇所を読まれて黙想することをお勧めします。

そのためにはカトリック中央協議会が毎月出している小冊子「毎日のミサ」を使用することをお勧めします。「毎日のミサ」はその月の毎日のミサの朗読箇所だけでなく当日のミサの祈願文も掲載されていて、祈りながら朗読できます。価格も税込み468円とワンコインで購入できます。

ぜひ毎朝、イエスさまと共に、神に祈る日々をお過ごしください。

 

第二朗読「使徒ヤコブの手紙2章14―18節」

この手紙は先週も申し上げましたように、使徒ヤコブの名前を借りて紀元100年前後のギリシアもしくはローマの教会の指導者が信徒に書き送った信仰養成のための使信と考えられています。その主要なテーマが本日の朗読箇所で力説されている「行いが伴わない信仰は死んだもの、役に立たないものである(17節、14節)」ということです。

当時の教会では福音書と共にパウロの手紙が書物にまとめられて広く読まれていたと考えられています。パウロは手紙の中で何度も「人は行いではなく信仰によって義とされる」と教えています。これを受けて「信仰」を持ってさえいれば十分で「行い」は必要ないと考える風潮が一部の信徒の間で広がっていたようです。

けれども実はパウロが「行い」と書く時には一般的な意味での「行い」ではなく、「律法による行い」のことを言っているのです。ですから正確に言えば「人は律法ではなく信仰によって義とされる」とパウロは言いたかったのです。

厳格なファリサイ派であったパウロは律法によってがんじがらめに縛られた信仰生活を送っていました。そして復活のキリストに出会ったことによって律法から解放されたのです。けれどもパウロの人格の中に律法は深く根を下ろしていて、律法から解放されるためには長い時間を要したのです。そのための苦しみの呻きがパウロの手紙のあちらこちらに刻み込まれています。

けれども紀元100年頃のギリシアやローマの教会では大半がユダヤ人ではなくギリシア人やローマ人のいわゆる「異邦人」のキリスト教徒でした。彼彼女らは「律法」による信仰生活を体験していないので、パウロやペトロたちのように律法との葛藤をくぐり抜けてキリストへの信仰に至るという歩みをしていません。パウロが言う「信仰」も「律法から解放された信仰」であったのです。それを理解できない異邦人のキリスト教徒が一般的な意味での「「行い」と「信仰」の文脈でパウロの手紙を読んでしまったがために誤解が生じたのです。

けれどもひたすら宣教という「行い」のために身を捧げたパウロ生涯を見れば、パウロにとって「信仰」と「行い」とは切り離せないものであったことがわかるはずです。

「あなたには信仰があり、わたしには行いがある(18節)」という表現ではまるで「信仰」と「行い」が「分業」のようになっています。「信仰をする人」と「行いをする人」というように。ヤコブに名を借りた教会指導者はこれを批判して「行いを伴わない信仰」も「信仰の伴わない行い」も共に「死んだ信仰」「死んだ行い」であると断言しているのです。

「信仰」と「行い」は切り離すことのできないものであり、「一体」であるということを教会指導者は信徒に教えようとしているのです。

 

福音朗読「マルコによる福音8章27―35節」

本日の朗読箇所でイエスは弟子たちに最初の受難予告をします。それに先立って、弟子たちが自分を何者だと認識しているのかをイエスは確認します。ペトロが弟子たちを代表して「あなたは、メシアです(29節)」と答えます。

イエスは「メシア」として受難予告を行うのです。

けれどもこの予告は弟子たちに激しい動揺を与えます。ペトロに至っては「イエスをわきへお連れして、いさめ始め(32節)」ます。おそらくペトロの「いさめ」は次のようなものであったでしょう。

「あなたはメシアなのです。ユダヤの国をローマ帝国から解放して、さらには神の民の国としてローマに代わって、世界を支配する国へと導くのが、神から与えられたあなたの使命なのです。それが最低の敗北者のしるしである十字架で殺されるなど、とんでもないことです!」

それに対してイエスは次のようにペトロに向かって言い放つのです。

「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

「人間的」に見れば「メシア」は政治的、軍事的指導者として、地上においてユダヤの国を通して全世界を統治する存在としての「栄光のメシア」です。

けれども「神の思い」から見れば「メシア」は十字架を担い、十字架に架けられる「十字架のメシア」なのです。

もし「メシア」がこの世の王になってしまえば、この世的な権力構造、弱肉強食の構造の中に取り込まれてしまうことになってしまうのです。

この世の王とは真逆の最低の敗北者として十字架に架けられることによって、この世の弱肉強食の世界、枠組みを打ち壊すことができるのです。

「十字架」はこの世の価値観の全てをひっくり返したのです。

ペトロをはじめとして弟子たちもあくまでもこの世的な、人間的な思いによって「あなたは、メシアです」と宣言していたのです。

イエスはペトロに「サタン、引き下がれ」と言われましたが、ギリシア語原文に即して直訳すると「私の後ろに退け、サタン」となります。

今、ペトロはイエスが十字架に向かって歩み出そうとしているのに「その前」に立ちはだかってイエスの十字架への歩みを阻もうとしています。それこそが「サタン:神の思いに逆らう者」の姿だったのです。

ですからイエスはペトロに神の思いにかなう正しい立ち位置を示されました。それが「私の後ろ」だったのです。イエスの後ろについて、イエスに従って、十字架の道を歩んでいくこと、これこそが神の思いに生き、神の業が成就するように「神と共に働く者」の姿なのです。

「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(34節)」