2024年9月8日 年間第23主日(B年)のミサ

2024年9月8日 年間第23主日(B年)のミサ 説教の要約

カトリック香里教会主任司祭 林 和則

 

第一朗読「イザヤの預言35章4―7a節」

「イザヤの預言」は一人ではなく三人の預言者の預言が集められています。

1章から39章までを第一イザヤ、40章から55章までを第二イザヤ、56章から66章までを第三イザヤと呼んで区分しています。時代区分としては「バビロンの捕囚(紀元前597―538)」が区分点となっていて捕囚以前が第一イザヤ、捕囚時期が第二イザヤ、捕囚後が第三イザヤと考えられています。

けれども今日の朗読個所は35章で第一イザヤに当たるのですが、内容的にはバビロンの捕囚時の人々に向けられた預言と考えられています。おそらく祭司たちによる6世紀以降の聖書の編集作業において第一、第二、第三のイザヤ書の一部が混合されたと考えられています。

「 おののく人々(4節)」とはバビロンの地にあって捕囚の生活を送るユダヤの人々であると考えられています。国が滅び、神殿も破壊されて、異国の地に連れ去られて、強制労働を課せられて、絶望してしまっている人びとです。

その人々に向かって神は預言者を通して語りかけられます。

「雄々しくあれ、恐れるな・・・神は来て、あなたたちを救われる(4節)」

「そのとき、見えない人の目が開き 、聞こえない人の耳が開く(5節)」

「そのとき」は救い主、メシアの到来の時と考えられるようになりました。メシアの到来の「しるし」として「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」のような奇跡が生じるとされたのです。

その「しるし」が今日の福音朗読にあるように、イエスの到来によって実現したと信じ、イエスをメシア、キリストと信じた人々が「キリスト者」です。

ただ、本日の箇所においては肉体的というよりは、精神的な障がいが書かれていると思います。

「見えない人(5節)」は「未来の希望が見えない人」であり、「聞こえない人(5節)」は「絶望のあまり心を閉ざして何も聞こうとしない人」であり、「歩けなかった人(6節)」は「心が折れてしまって生きる歩みを止めてしまった人」であり、「口の利けなかった人」は「悲しみのために歌うことのできない人」である、というように想定することができます。

その人びとに「希望」を与え、「心を開かせ」、また「歩みだす」力を与え、口を開いて「歌わずにはいられない」喜びを与えるのが「メシア」なのです。

 

第二朗読「使徒ヤコブの手紙2章1―5節」

「ヤコブの手紙」は紀元100年前後の無名の教会指導者が「ヤコブ」の名前を借りて書かれた手紙であると考えられています。本日の朗読箇所にとても具体的に書かれている 「金持ちを優遇し、貧しい人を冷遇した(2―4節)」出来事は、ギリシアもしくはローマの教会において実際に起こった出来事であったのであろうと考えられています。

その出来事を挟んで「わたしの兄弟たち」で始まる前枠(1節)と「わたしの愛する兄弟たち」で始まる後枠(5節)が、その出来事に対する教えになっています。

前枠では「主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません(1節)」と教えます。

キリストへの信仰と、何であれ人を差別することは両立し得ないということです。その根拠は何よりも、イエスご自身がその生き方において一切の差別をなさらなかったことにあると思えます。イエスと生活を共にした弟子たちの時代から、それは現代にいたるまで教会の中で伝承されて来ています。

後枠では「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ(5節)」と教えます。

金銭的、物質的に貧しい人こそが神によって選ばれた、信仰において豊かな人であるというのです。貧しい人々はただ、神に頼って生きるしかないがゆえに、信仰が豊かになるということなのかも知れません。いずれにしても、この世的な「物差し」で人を判断し、差別してはならない、ということです。

私たちもこの世的な地位や財産によって自分を飾るのではなく、信仰の豊かさによって、神と共に生きる喜びによって、自分を輝かせたいと思います。

 

福音朗読「マルコによる福音7章31―37節」

異邦人の土地ティルスやシドンの地から、本来の活動の地であるガリラヤに戻って来たイエスに「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるように(32節)」と願います。この場合、いやしてもらいたい本人ではなく、その人を支え、共に生きている人びとの信仰と隣人愛を見て、それに応えるために、イエスはその人をいやされます。

いやしを行うに当たってはその人だけを「群衆の中から連れ出し(33節)」て、群衆からは見えないようにしていやしの業を行われます。その業がとても具体的に表現されています。

「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた(33節)」

この詳しい描写は実際にイエスがこのように行われたのだと考えられますが、同時に福音書が書かれた時代(紀元70年頃)に教会の中でいやしの儀式として行われていたのであろうとも考えられます。

いずれにしても大切なことはこの所作ではありません。この所作だけでは何か「魔術」のような儀式を連想させてしまうかも知れないからです。

続けて福音書は、以下のようにイエスの姿を描写します。

「そして、天を仰いで深く息をつき(34節)」

これこそがイエスのいやしの業「奇跡」が実現するための力の源なのです。

これはイエスが「天」である「神の座」を仰ぎ、父である神に執り成しの祈りを捧げている所作なのです。イエスの奇跡は「魔術」ではありません。「神の業」です。イエスはその人に「神の業」が働くように「執り成しの祈り」をされているのです。

そして奇跡を行った後に必ずされていることが「だれにもこのことを話してはいけない(36節)」と口止めをされることです。それは「奇跡」という圧倒的な力を目の当たりにして、人びとがイエスに「間違った期待」を抱いてしまうことを少しでも防ぐためでした。

人びとがイエスに「この世的なメシア」を期待してしまうことです。それは当時のユダヤの情勢にあってはユダヤの国をローマ帝国から解放し、さらには世界を支配する国にしてくれる軍事的・政治的な指導者としてのメシアです。

けれどもイエスは「十字架のメシア」であって、この世的な栄光とか勝利とかとは真逆のメシアであったのです。

そのようなメシアこそが「神の愛をあかしするメシア」なのです。

 

また、本日の福音ではイエスが耳の聞こえず舌が回らない人に発せられた言葉である「エッファタ」に着目してみたいと思います。

この言葉はイエスの生きた当時の中近東地域における公用語であった「アラマイ語(もしくはアラム語)」で「開け」という意味です。イエスはまさにその時、「エッファタ」という言葉を発せられたのです。私たちはこの箇所を読む時、イエスの「肉声」を聞くような思いになれるのです。

このイエスの「肉声」を「射祷(しゃとう)」に用いることができます。「射祷」とは短い言葉、時にはひとつの単語だけでの祈祷、祈りです。それは短い言葉を矢のように放って、祈りの的を見事に射抜くというように表現できる祈りです。

私たちには心が「閉じている」ときがあります。

それは突然の不幸や、自分を否定される体験によって、自己防衛のために自己の殻に閉じこもってしまう時。また、ある人への怒りや憎悪によって、心が覆いつくされている時。それとも、何かへの執着から離れることができず、それによってが支配されている時・・・。

そんな時、閉じてしまっている心に向けて、何度もこの言葉を投げかけます。

「エッファタ」「エッファタ」「エッファタ」・・・・・・・

その時、その祈りはイエスの「肉声」になり、イエスが私たちの心に語りかけてくださり、私たちの心は開かれて行くのです。