カトリック香里教会主任司祭 林 和則
第一朗読「申命記4章1―2、6―8節」
「聖書と典礼」の聖書朗読の翻訳には新共同訳が使用されています。ただ、本日の第一朗読の1節「イスラエルよ、今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい」はヘブライ語原文を直訳すると以下のようになります。
「今、イスラエルよ、聞け、あなたたちが行うようにと私が教えた掟と法を」
新共同訳では「聞け」を省略して「行う」ことに主眼を置いて翻訳しているのでしょう。けっして、それが間違いであるとは言えませんが、旧約、新約を通して書 では「聞く」ことがとても大切にされています。
この個所においても 「行う」前に、まず 「神に聞きなさい」と聖書原文は語っていると思います。
それは以前に行った同じ掟、法を行うに当たっても、まず 「神に聞きなさい」ということであると思います。同じ掟や法であっても、絶えず「状況」は変わっているからです。「状況」に応じて掟と法を見直し、「状況」に適応した「行い」を実行することが大切です。「状況」に関係なくただ固定化した「行い」を続けることが、イエスの時代の「律法主義」であったと思います。その場の状況や相手に応じて対応を変えていくことのできない、形骸化した律法です。
私たちも「福音」を形骸化させてはならないと思います。
本日の朗読箇所の以下の箇所は何度読んでもすばらしいと思え、感動します。
「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか(7節)」
この「近くに」は距離的というよりも「関係性」の「近さ」、つまり神が本当に私たちと「親密な関係」を持っていてくださるということだと思います。
古代の宗教の中で、ユダヤ教の旧約聖書のように神と人が「対話」する書物を有する宗教はなかったと言えます。神が超然として人間と関係を持とうとしない宗教がほとんどであったのに、旧約聖書では神が「人格的」に人間と 「対話」してくださるのです。
その「対話」を完成させてくださったのが、神の子が人間となって私たちの中に生まれて来てくださった「受肉の神秘」です。神が人間となって人間の言葉で語り、人間の体をもって交わってくださったのです。
私たちキリスト者こそが「いつ呼び求めても答えてくださる、我々と共におられる神、主のような神を持つ、大いなる恵みを受けた民がどこにあるだろうか」と感謝をもって宣言するべきなのです。
第二朗読「使徒ヤコブの手紙1章17―18、21b―22、27節」
ヤコブは父である神を「光の源である御父(17節)」と表現します。これは旧約書 の「創世記」の冒頭、神が最初に創造された被造物が「光」であったことに基づいています。
この世界への神の第一声が「光あれ(1:3)」でした。 「光」は神を源として神から降り注がれたのです。
ヤコブは人間についてはこのように語ります。
「わたしたちを生んでくださいました(18節)」
けれども「創世記」に かれているように本来、人間は神によって「創造」された被造物であり「造ってくださいました」と表現するべきです。
ヤコブはここで被造物であった人間がキリストの洗礼を受けることによって「神から生まれた神の子」にしていただいた恵みを書いているのです。
だからこそヤコブは続けて 「わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるため(18節)」と語るのです。
人間は被造物の中にあって最初に「神から生まれた」存在とされ、それは神の新たな創造の始まりであり、人間だけでなく、キリストを通してこの世界の全ての被造物が、神によって新たにされる希望が告げられているのです。
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(コリントの信徒への手紙二5章17節)」
福音朗読「マルコによる福音7章1―8、14-15、21―23節」
本日の福音は前半と後半に分けることができます。1節から8節までが前半で、14節から23節までが後半です。
前半は「昔の人の言い伝え」について、後半は「食物規定」についてがテーマになっています。
「昔の人の言い伝え」とは民間伝承のような漠然としたものではありません。
聖書に かれている律法を具体的に生活に適用するために「行為化」していくために加えられていった律法で、聖書に書かれた律法に対して「口伝律法」と呼ばれる律法が「昔の人の言い伝え」と呼ばれていました。
紀元前6世紀、バビロニアによる侵略によって神殿が破壊され、異国の地に連れ去られたユダヤの民(バビロンの捕囚)の信仰生活の危機的な状況にあって、祭司たちは神殿に代わって「律法」と「安息日」を中心としてユダヤ教を維持継続させていこうとします。それに当たって「律法」をより具体化して、どのようにそれを生活の中で」行えばよいかという「細則」が作られていきました。それはユダヤ教の指導者ラビたちによって作られ伝えられて行き、やがて「ミシュナー」という 物に編集されていきます。
この「口伝律法」がイエスの時代にあっては600以上にも膨れあがっていて、生活の細部にまでも人びとを拘束していました。それは一種の「点数主義」に陥り「何点取ったか」つまりどれだけ「守っているか」が重要になりました。
「律法」とは本来、神の思いを生活の中に活かして、生活を書化し、神と共に生きる生活を実現するためのものでした。それが「神の思い」ではなく律法を「守る」ことに重点が置かれることによって、「競争」と「排除」が生じました。律法を守ることを競い合い、守れない者を罪びととして排除するのです。
ですからイエスは「昔の人の言い伝え」を「人間の言い伝え(8節)」と断言し、否定するのです。これは口伝律法を守ることを自分の権威のより所としていたファリサイ派と律法学者たちにとっては自分たちが否定されたように思え、激怒したと考えられます。
イエスは「神の思い」を人間が自分たちの考える「枠」の中に押し込めて固定しようとすることによって、「神の思い」が 「圧死」してしまう危険性を訴えていたのだと思います。「神の思い」は風のように思いのままに吹き、どこにでも行くのです(ヨハネ3:8)。私たちはその「神の思い」に身をゆだねていけばよいのです。
後半ではイエスは律法の中にあった「食物規定」を破棄します。
「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく(15節)」
という言葉は「この食物を食べたら汚れる」という律法の 「食物規定」の考えの根拠を否定しています。このイエスの教えによって、キリスト教では今日に至るまで「食物規定」を設けてはいません。
そしてイエスは次のように言われます。
「人の中から出て来るものが、人を汚すのである。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである(15b、21節)」
「悪い思い」のリストとしてイエスは「みだらな行い(21節)」というように悪い思いによる「行い」も含めています。
その中には「悪口」もあります。「悪口」が行いになれば「いじめ」になると思います。「いじめ」は社会的な問題であり、子どもから高齢者までに至る全世代において認められる「人間の普遍的な悪」として深刻な問題であると思えます。
ただイエスの言葉から思えるのは、いじめられる側の人は確かに「傷つき」ます。霊魂に「傷」を受けますが「汚れる」ことはないということです。
けれどもいじめを行った側の人は相手への優越感に満足を覚えるかも知れませんが、霊魂が 「汚れる」のです。つまり、人をいじめることによって、自らを「汚している」のです。
「いじめ」は、霊魂を失ってしまうような危険をもたらす愚かな行為なのです。
