カトリック香里教会主任司祭:林 和則
第一朗読「箴言9 章1―6 節」
第二朗読「使徒パウロのエフェソの教会への手紙5 章15―20 節」
本日の第一朗読の「箴言」では「知恵」が擬人化されています。キリスト教では旧約においてこのように擬人化された「知恵」をキリストご自身として解釈しています。後半の「わたしのパンを食べ、私が調合した酒を飲むがよい(5 節)」という言葉を、本日の福音書に書かれているキリストの「私の肉を食べ、私の血を飲む(ヨハネ6:54)」というように聖体の前表として解釈します。本日の福音との関連性から、この箇所が本日の第一朗読に選ばれています。
「箴言」ではこの後の13 節から18 節において「愚かさ」を擬人化して、本日の箇所と対を成すように構成されています。
『愚かさという女がいる。騒々しい女だ・・・
道行く人に呼びかける。「浅はかな者はだれでも立ち寄るがいい。」
意志の弱い者にはこう言う。「盗んだ水は甘く、隠れて食べるパンはうまい」
そこに死霊がいることを知る者はない。彼女に招かれた者は陰府に落ちる。(箴言6 章13―18 節。一部、省略)』
「愚かさ」も「知恵」と同じように「浅はかな者」に呼びかけます。
「浅はかな者」と訳されたヘブライ語は他に「未熟な者」「無知な人」「影響を受けやすい人」という意味もあります。「未熟」で「無知」であるからこそ「影響を受けやすい」のです。
私たちは皆「浅はかな人」なのです。それは私たちの弱さのゆえであります。
けれども大切なことは自らの「浅はかさ」を自尊心の抵抗があっても否むことなく受け入れ、頭(こうべ)を垂れることです。
「浅はかな者」であってもいい、むしろ正しいもの、善なるものに「影響を受ける」ことが大切なのです。
旧約の言う「知恵」とは「神の知恵」です。「愚かさ」とは「人間的な知恵」を指します。
本日のパウロの手紙でも「愚かな者としてではなく、賢い者として(15 節)」というように「愚かさ」と「賢さ」が対比されています。パウロも聖書的な視点から「愚かさ」を「人間的な知恵」に基づくもの、「賢さ」を「神の知恵」に基づくものとして考えています。ただし、旧約を越えて新約を生きるパウロは「神の知恵」はキリストによって完全に啓示され、その核心が「十字架」であると確信しています。
「人間的な知恵」はこの世的な地位や名誉や財産を得るための立身出世、処世のための「知恵」と言えます。
対して「神の知恵」は「十字架」によって示されたようなこの世的な価値とは全く逆の価値を求めます。地上的な成功ではなく、天上的な、神の思い、御心を求めて生き、神の子として生きるための「知恵」です。
だからこそパウロは「主の御心が何であるかを悟りなさい(17 節)」とエフェソの信徒に、私たちに、命じるのです。
「人間的な知恵」は「他者の地位を奪い取るような『盗み(合法的であっても)』」や「『隠れて(相手に黙って)』行う陰謀」などのような神の義に反するような方法であってもこの世的な成功を手に入れるためならば「良し」とします。
地位や名誉や財産を求めて必死になって、この世をはいずり回るような生き方よりも、絶えず顔をあげて、天を、神の思いを求めて生きる、神の義と愛の中で生きる人を「箴言」もパウロも「賢い者」と呼ぶのです。
それは「自分の知恵、賢さ」ではありません。「神の知恵、賢さ」に基づき、私たちはそれに「影響を受けて」、「浅はかな者」でありながらも「賢い者」となれるのです。
福音朗読「ヨハネによる福音6 章51―58 節」
本日の福音は先々週、先週と続いてきた「ヨハネの聖体論」とも呼ぶべき、ヨハネによる福音だけが記述しているイエスの聖体についての教え(6:26-58)の最後の箇所です。
冒頭の箇所は先週の福音朗読の最後の箇所を再録しています。先週の説教で申し上げましたように、この51 節において聖体についての意味が変化する、大切な箇所だからです。
51 節前半までの聖体は「イエスご自身をパン」としていましたが、51 節後半からは「イエスが与えるパン」に変わっています。
54 節では「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は」とイエスはユダヤ人に言われます。この言葉には明らかに他の共観福音書が記述している最後の晩さんにおけるイエスの言葉が前提にされています。
「取って食べなさい。これはわたしの体・・・この杯から飲みなさい・・・多くの人のために流されるわたしの血(マタイ26:27―28)」
ここから言えることは、ヨハネは「聖体の制定」を最後の晩さんの中ではなく、6 章の「聖体論」の中で書き記しているということです。
最後の晩さんの記念(福音書の時代では「パン裂き」と呼ばれていました)の中で秘跡としての聖体であるパンを食べる人は将来的には「永遠の命(54 節)」を得、終わりの日にキリストによって「復活」させて頂きます。
現在的には聖体であるパンを食べる私たちは「いつもキリストの内にいて、キリストもまたいつも私たちの内にいてくださる(56 節より)」ようになります。
聖体であるパンを食べることによって「キリストの命」を頂き、私たちの命は「キリストの命」に包み込まれ、ひとつになるからです。
さらにイエスは次のように言われます。
「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように(57 節)」
この言葉における「わたし」は「キリスト」です。それはまた聖体であるパンを食べることによって「キリスト」とひとつになった「私たち」自身でもあるのです。
私たちは聖体であるパンを食べることによって父である神ともひとつになって、父と子と聖霊の交わりの中に入って行くのです。そして神の子が三位一体の交わりの中から遣わされたように、私たちもまた三位一体の交わりの中から遣わされて「父から遣わされた者」となることができるのです。
最後の晩さんの記念としての聖体であるパンは私たちとキリスト、そして三位一体の神とをひとつにしてくださり、私たちを神から「遣わされた者」として日々の生活の中へキリストの弟子として派遣してくださるのです。
ヨハネの「聖体論」において大切なことは、6 章26 節から51 節前半における「天から降って来たパン」すなわち「神の言葉としてのパン」と51 節後半から58 節までの「最後の晩さんの記念の秘跡としてのパン」の「ふたつのパン」を並列していることです。
ヨハネの福音書はもっとも遅く紀元90 年ごろに成立しました。最後の晩さんの記念の記述は紀元53 年頃に書かれたとされるパウロの「コリントの教会への手紙一」にあり(11:17―34)、その時からしても40 年以上が経過しています。そのような中で次第に「最後の晩さんの記念」が儀式的に形骸化するようになり、人びとがその意味をよく理解することなく習慣的に預かるような状況が生じていた可能性があります。
それを憂えたヨハネがあえて「最後の晩さん」の中にではなく、6 章に書くことによって、「聖体の秘跡」の「形式」よりもその「意味」を人びとに伝えようとしたのではないでしょうか。
まず「天から降って来たパン」「神の言葉」として来られたキリストの教え、生き方を聖書を通して十分に「味わう」こと、読み、学び、黙想してキリストご自身を自分の中に深く「食した」うえでこそ、最後の晩さんの記念、ミサに与かって「聖体」を拝領することが、「聖体」の中の「キリストの命」を本当によく「生かす」ことになると、ヨハネは私たちに訴えているのでしょう。
