2024年8月11日 年間第19主日(B年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭:林 和則

 

第一朗読「列王記上19 章4―8 節」

預言者エリヤは紀元前9 世紀、北イスラエル王国、アハブ王の治世下で活動しました。アハブ王は経済発展のために諸外国との交流を盛んに行い、地中海貿易で繁栄していた都市国家シドンの王女イゼベルを王妃として迎えました。イゼベルは自国の宗教であるバアル神への信仰を持ち込み、何百人ものバアルの預言者を連れて来て、北イスラエルの各地にバアルの神殿を建てることをアハブ王に要求しました。アハブ王はイゼベルの言いなりになってしまい、彼女の好きなようにさせました。

エリヤは公然とこれに反対し、カルメル山上において民の見つめる中でバアルの預言者たちと対決し、祈りの力をもってイスラエルの神こそがまことの神であることを証明しました。興奮した民はバアルの預言者たちに襲いかかりました。これを聞いたイゼベルは激怒し、軍隊にエリヤを殺害するように命令を下し、エリヤは逃亡し、南ユダ王国を経て、荒れ野に逃れて行きました。

今日の第一朗読は逃亡生活に疲れ果てたエリヤが神に死を願って、えにしだの木の下で眠り込んでしまう箇所です。

神はみ使いを送ります。二度、送るのですが、二度ともみ使いはエリヤに「触れ」ます。言葉をかけるだけでなく「触れ」るのです。ここに神のエリヤへの深い慈しみを感じ取ることができます。神はみ使いを通して、エリヤへのいたわりを込めて、母が我が子を愛おしむように「触れ」られたのです。

み使いの与えたパンを食べ「その食べ物に力づけられて(8 節)」エリヤは荒れ野を四十日間歩き続けて神の山ホレブに至り、ついに神と出会います。

この「パン」は「聖体」の前表であると考えられています。

私たちも毎週ミサに招かれて、神に「触れて」いただくのです。

エリヤへの言葉は次のように言い換えられるでしょう。

「取って食べよ。これはキリストの体。あなたの人生の旅は長く、あなたには耐えがたいからだ。」

エリヤの荒れ野での「四十日」の歩みはイスラエルの民の荒れ野での「四十年間」の放浪を想起させます。私たちの人生の旅路もどこに向かって歩んでいるのかを見失いがちな、荒れ野での旅路のようなものだと思えます。そんな私たちが倒れてしまわないように、神は毎週、私たちにミサを通して出会い、触れ、「キリストの体」であるパンを与えてくださるのです。

この「パン(ミサ全体をも指します)」に「力づけられ」て私たちは人生の旅路を歩み続け、ついには神と出会うことができるのです。

 

第二朗読「使徒パウロのエフェソの教会への手紙4 章30 節~5 章2 節」

パウロは「聖霊を悲しませてはいけません(4:30)」と書きます。聖霊を悲しませるものとして「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしり(4:31)」などをパウロは列挙します。それらは私たちを神から引き離すからです。聖霊は地上にある私たちと天におられる神とをつなぐために来てくださったのに、それに反するような思いを抱くことは、聖霊を悲しませるのです。

逆に聖霊を喜ばせるように「互いに親切にし、憐みの心で接し・・・赦し合いなさい(4:32)」とパウロは命じます。

けれどもこれは実行しなければ罰を受けるような「義務」ではありません。パウロは「あなたがたは神に愛されている子供ですから(4:1)」と理由づけます。

単に「子供」なのではなく「愛されている子供」なのです。それは私たちが何か善い行いをしたからとか、善い人間であるとか、ではありません。私たちが何をしたか、どんな人間であるかを一切問うことなく、全く無条件に神は私たちをご自分の「子供」として愛してくださるのです。

ヨハネが「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです(ヨハネの手紙一4:19)」と言うように、私たちが「神に愛されている子供」であることを実感できればできるほど、私たちはその愛に応えようとして感謝と喜びのうちに互いに親切にし、赦し合うことができるようになるのです。

 

福音朗読「ヨハネによる福音6 章41―51 節」

先週も申し上げましたように、6 章にはヨハネの「聖体論」とも言うべき聖体に関する教えが群衆と議論する形式で書かれています。それは具体的には6 章26 節から58 節までを指します。

本日はその中での41 節からですが、この節からこれまで6 章の中で「群衆(2節、5 節、22 節、24 節)」と呼ばれていた人びとが「ユダヤ人」と呼ばれるようになります。これはヨハネ福音書の特徴的な表現で「ユダヤ人」は「イエスに敵対する人びと」というような意味で使われています。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書では初代教会の人びとはどこかで自分たちも「ユダヤ人」であるという帰属意識を有していました。けれどもヨハネでは「ユダヤ人」は自分たちの共同体の「外にいる人びと」さらに「自分たちキリスト者に敵対し迫害する人びと」として意識されていて、「ユダヤ人」への帰属意識は失われているのです。

それはヨハネ福音書が成立したとされている紀元90 年の状況が影響していると考えられます。当時のユダヤ教はナザレのイエスをメシア(キリスト)と信じる人びとを会堂から追放し鞭打つことを正式に決定し、ユダヤ教の初代教会への迫害が公然化したものとなったのです。

敵対する側となった「ユダヤ人」はイエスにたいして「つぶやき始め(41 節)」ます。

それはイエスの「わたしは天から降って来たパンである(41 節)」についてで、「ユダヤ人」はこのようにつぶやきます。

「これはヨセフの息子のイエスではないか(42 節)」

「ユダヤ人」はあくまでもイエスを「ユダヤ社会」の枠の中で「ユダヤ人」として捉えようとします。その枠の中にあっては「天から」というような「枠」を超える存在は許容できないのです。

けれどもイエスは先週の28 節で「群衆」の「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」という問いかけに「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である(29 節)」と答えています。つまりまず、イエスが「神から遣わされた者」であることを信じることが神の業を行うために第一に必要なことであると言っています。「天から降って来た」というのは「神から遣わされて来た」のと同じことであって、それが信じられなければ、イエスが「パン」であることも信じることはできないのです。

イエスがご自身のことを「パン」と言われる時、それはイエスの全人格、十字架に集約されるその生きざまによって啓示された「神の言葉」を指しています。

「言葉は肉となった(ヨハネ1:14)」

旧約聖書からの啓示が、イエスを通して完成されたということです。

ですからその「世に命を与えるパン」を「食べる」ためにはイエスの教え、その生きざまを、聖書を通し、また信仰生活を通して、イエスとまた隣人との人格的な交わりの中で学び、知り、体験し、単なる知識ではなく生き方としてキリストを生きて行くことが必要なのです。そのための出発点がイエスを「神から遣わされた者」「天から降って来た者」として信じることなのです。

「ユダヤ人」たちは「ユダヤ人」の枠から出ようとしなかった、その中に閉じこもっていたためにイエスを「神から遣わされた者」として受け入れることができませんでした。けれどもキリスト者はその枠の中から出ることによってイエスをキリストと信じることができたのです。

そして今日の朗読箇所の最後の51 節の後半において「パン」の意味が変化していきます。51 節前半の「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」はそれまでのイエスご自身が

「パン」であり、イエスを知り、イエスとの愛の交わりに入ることによって永遠の命を得るという「聖体論」のまとめのようになっています。

それが51 節後半では「わたしが与えるパン」というようにイエスご自身ではなく、イエスが与えるパンに変わり、それを「わたしの肉」と言われます。この51 節後半から、「パン」が最後の晩さんにおいて制定された「聖体の秘跡」の「パン」に変わり、それについて語られていくのです。