カトリック香里教会主任司祭:林 和則
第一朗読「出エジプト記16 章2―4、12―15 節」
本日の第一朗読は、福音において群衆がイエスにしるしを求める際に旧約の事例として引き合いに出した「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました(ヨハネ6:31)」の出典箇所であることから選ばれています。
神がモーセを導き手としてイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から自由の地へと解放します。けれどもまず民は40 年間も荒れ野の「地」での日々を過ごさねばなりませんでした。水も食べ物もない荒れ野で、民はしばしばモーセと神に「不平を述べ立て(2 節)」ます。
本日の箇所では「エジプトの国で・・・死んだ方がましだった(3 節)」とまで言います。それは神がイスラエルの民に行った救いの業を「必要なかった」として否定するような、神への冒涜と言ってもよいような言葉です。その理由として民は「(エジプトでは)肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられた(3 節)」からだと言うのです。
荒れ野での「自由」よりも、エジプトでの「奴隷状態」にあっても「物質的な豊かさ」の方がよかったということです。この民を愚かだと軽蔑することはできません。私たちも含めて、人間には精神的な自由よりも物質的な満足を求める傾向、「弱さ」があるからです。このような人間の「弱さ」をご存じの神は怒ることなく、民にうずらによる「肉」と天からの「パン」を与えます。
「荒れ野」は人間の「業」が通用しない世界です。ただ神の「業」にすがるしかない場所です。だからこそ自らの「無力」と神の「恵み」をはっきりと実感することができる場所でもあるのです。
物質的な満足さえ得られれば「(罪の)奴隷」となってもよいとする生き方か、物質的には欠乏することがあっても神から与えられるもののみに頼って「(神の子の)自由」を求める生き方か、神は「荒れ野」を通してイスラエルの民に選択を迫ったのかも知れません。
私たちも絶えず日々の生活の中で、この選択を神から突きつけられているのです。
第二朗読「使徒パウロのエフェソの教会への手紙4 章17、20―24 節」
パウロはエフェソの教会の信徒に「異邦人と同じように歩んではなりません(17 節)」と諭します。けれども洗礼を受けたにせよ、戸籍上において、彼らはユダヤ人ではなく「異邦人」であり続けています。パウロが言う「異邦人」とは社会的な「戸籍」や身分によるものではないのです。
「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです(コリントの信徒への手紙一13 節)」
パウロが言う「異邦人」とはキリストの洗礼を受けていない人びとを指しています。エフェソは異教の礼拝が盛んな場所でした。異教の礼拝が「異邦人の歩み」の核をなすものであるので、退けるようにとパウロは諭しているのです。
異教の礼拝は自らの「願望」を実現するためのものでした。この世的な成功や財産や地位を手にするために神々に捧げものをし、時には魔術までをも駆使しようとしました。それは己の願望や欲望のために神々を「道具」として用いることでした。自己の願望を実現することが「目的」であって「礼拝」はそのための「道具」に過ぎなかったのです。
パウロはそれを「愚かな考え(17 節)」とし、エフェソの信徒は「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです(21 節)」と確信をもって語ります。
パウロにとって「キリストから学んだこと」の核心は「十字架」です。キリストは十字架を通してご自分を完全に捧げ尽くすことによって、御父への従順と私たちへの愛を全うされたのです。
そのキリストの十字架に従って歩むならば、私たちもキリストのように、自分のためではなく、神と人びとのために自らを捧げて行く生き方が求められます。
自己中心的な生き方を捨てて、自分の思いではなく神の思いを実現するための「道具」として生きて行く、これこそが「神にかたどって造られた新しい人(24節)」の歩む生き方でしょう。
福音朗読「ヨハネによる福音6 章24―35 節」
マタイ、マルコ、ルカの福音書を共観福音書と呼びます。それは共通の視点から編集されているからです。イエスの3 年間の宣教活動における時系列の流れがほぼ一致していて、出来事やイエスの教えも重複する記事が数多くあります。
それらに対してヨハネの編集は独自の視点に立っていて、エルサレム訪問の回数など、時系列の流れに違いがあり、共観福音書に記載されていない記事(サマリアの女、ラザロの蘇生など)が数多く記載されています。
それらの違いの中で最も大きな相違点が「最後の晩さん」の記述です。ミサの奉献文に用いられている「取って食べなさい、このパンは私の体。受けて飲みなさい、これは私の血の杯」というような「聖体の制定」と呼ばれるイエスの言葉を共観福音書は共通して記述していますが、ヨハネには記述されていないのです。その代わりにヨハネだけが「告別説教」と呼ばれる長いイエスの教えを記述しています。
それではヨハネの福音は最後の晩さんの記念である「聖体の秘跡」を認めていなかったのでしょうか。
もちろん、認めていました。ヨハネは6 章において、共観福音書にはない「ヨハネの聖体論」ともいうべきイエスと群衆との対話を通して、共観福音書以上に「聖体」について語っているのです。
6 章は先々週7 月28 日の福音朗読箇所であった五千人にパンを与える奇跡によって始まります。その日の説教で述べましたように、それは最後の晩さんの記念、つまりミサを表す「しるし」であって、パンは十二のかごを満たす、すなわち神の民を満たす「聖体」のしるしであったと考えられます。
これを受けて本日の箇所からイエスと群衆また弟子たちとの「聖体」をめぐる対話が始まります。
「対話」と言いましたが、実は「対話」にはなっていないのです。絶えず、イエスと群衆との「対話」はかみ合わず、最終的には分断がもたらされるからです。
かみ合わない原因はイエスと群衆との視点が違うからです。同じものを見ながらも視点が違うためにかみ合わないのです。イエスは「霊的」な視点を持ち、群衆は「物理的」「物質的」な視点を持っています。
イエスはそれを見抜かれていて「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ(26 節)」と言われます。
第一朗読の荒れ野でのイスラエルの民のように霊的に満たされることよりも、物質的に満たされることを求めていると断言されています。
「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである(33 節)」
この言葉がヨハネの聖体論の核心です。「天」は「父と子と聖霊の神の座」です。その「神の子の座」から神の子が世に降って来て、世の人びとに命をあたえるのです。
この言葉はヨハネの福音書の冒頭の言葉「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた(1:14)」と響き合っています。受肉の神秘を表現していますが、この「肉」は「人間」だけでなく「パン」をも表しているのです。
この文脈で考えれば「命のパン」は「神の言(ことば)」であると言えます。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる(マタイ4:4)」
イエスは全人格、その生きざまを通して「神の言葉」を語り、示されました。
イエスという全存在が私たちに命を与える「神のパン」そのものなのです。
けれどもそれを聞いた群衆が「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください(34 節)」と言っている「パン」はあくまでも肉体を活かす物質的な食物としてのパンなのです。そのような物質的な欲求、自分たちの地上的な願望を満たしてくれる人こそが、彼らにとって「主」であり「王」であったのです。
