カトリック香里教会主任司祭:林 和則
第一朗読「列王記下4章42―44 節」
エリシャは紀元前9 世紀、北イスラエル王国で活動した預言者です。彼の師であるエリヤはカルメル山で天から火を降らせて、バアルの預言者に勝利しました。弟子であるエリシャも多くの奇跡を行いました。
本日の箇所ではパンを増やす奇跡で、本日の福音のイエスが五千人にパンを与えた奇跡との関連から第一朗読に選ばれています。
本日の箇所のポイントは43 節、44 節それぞれに繰り返されている表現です。
43 節:「主は言われる。 『彼らは食べきれずに残す。』」
44 節: 主の言葉のとおり 彼らは食べきれずに残した。
43 節ではエリシャの言葉としての直接話法、44 節では地の文としての関節話法としてですが、隣接した節の間で同じ表現が繰り返されています。これはその内容を強調するためです。
パンを増やす奇跡を起こしたのはエリシャではない、ということです。
この奇跡を起こしたのは「主の言葉」なのです。
エリシャはただ、「主の言葉」を語ったにすぎないのです。
そのことを、誰よりもエリシャ自身が自覚していました。
第二朗読「使徒パウロのエフェソの教会への手紙4 章1―6 節」
教会ではよく「ともに」「ひとつになろう」などというように、教会共同体のメンバーの「一致」が目標として大切にされています。ただその際に、それは私たちの人間的な努力によって達成される「一致」ではない、ということを絶えず意識することが必要です。でなければ、教会共同体が人間的な共同体、町内会やサークルの集いのようなものになってしまいます。もちろん、そのような集いによってもたらされる交わり、一致も尊いものです。
けれども私たちは自らの思いによって「集まった」のではなく、神によってキリストを通して「集められた」集いなのです。
パウロはそれを「霊による一致(3 節)」と表現しています。私たちは「キリストの洗礼」を受けたことによって、聖霊降臨の恵みを頂きました。今、このミサに与かっている私たち一人ひとりの中に同じ、ひとつの聖霊が宿ってくださっているのです。その聖霊が私たちの体を越えて、ひとつにしてくださるのです。
「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ(5 節)」とパウロが喜びをもって宣言するように、私たちはただ一人のキリストを信じる同じ一つの信仰に招かれたことによって、同じ一つの洗礼を受け、同じ一つの聖霊に満たされたのです。
これこそが私たちの「ともに」「一致」の原点です。私たちはこのキリストによる、聖霊による一致をより豊かにするために「互いに愛し合う」ように招かれています。
「神から招かれたのですから」「その招きにふさわしく歩む」ためには「高ぶることなく」「柔和」で「寛容の心を持ち」「愛をもって忍耐」するようにとパウロは私たちにすすめます(1―2 節)。
大切なことは「父である神」がいつも私たちみんなの「内におられ」て、私たちを「通して働いて」くださることです(6 節)。「私たち」ではなく「神」が働いてくださるのです。
私たちは自分の思い、考えではなく、ただ、神の働きに自分をゆだねていくことが求められています。
でなければ、教会共同体がそれぞれの思いのぶつかり合う場になってしまう危険性があります。
福音朗読「ヨハネによる福音6 章1―15 節」
本日の福音ではイエスが五千人の人びとにパンを分け与えた奇跡の出来事が書かれています。この箇所はヨハネだけでなく、マタイ、マルコ、ルカの全ての福音書に書かれています。奇跡の行われた場所はヨハネでは「山」、マタイ、マルコ、ルカでは「人里離れた所」になっていますが、どちらも聖書また福音書においては「神と出会う場」を表しています。
ヨハネと他の三つの福音書とでの大きな違いは、ヨハネだけに「大麦のパン五つと魚二匹を持っている少年(9 節)」が登場します。
ただし、この少年の登場は「唐突」な印象を与えます。
まず、イエスが群衆を見てフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか(5 節)」と問いかけます。フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン(一日の労働者の賃金を8000 円とすると160 万円)分のパンでは足りないでしょう(7 節)」と答えます。このやり取りは文脈から考えて、群衆からは聞こえない、群衆と距離を置いた場所で、イエスと弟子たちだけで行われたと考えられます。
ところが次の8 節でそのイエスと弟子たちの中に突然「少年」が現れるのです。この「少年」は群衆の中にいたはずです。その「少年」がどうして群衆と距離を置いていたイエスと弟子たちの場の中に現れることができたのでしょうか。
文脈的に考えて、7 節と8 節の間に省略されている「何らかの出来事」があって、その出来事によって「少年」がイエスと弟子たちの中に現れたと考えるのがもっとも妥当であると思えます。
それでは「何らかの出来事」が何であったのか、推理を働かせてみましょう。
イエスから群衆にパンを与えるようにという課題はフィリポを通して弟子たち全員に与えられたと考えるべきでしょう。ペトロをはじめとする弟子たちは手持ちのお金のない状態で、どのようにこの難問を解決すべきか頭を悩ませ、ああでもない、こうでもないと意見を出し合ったことでしょう。
弟子たちが出した最終的な答えは次のようなものであったと考えられます。
「群衆の多くはイエス様を追って話を聞くためには一日がかりの行程になると考えて、あらかじめ『弁当(当時は少年が持っていたようなパンと干し魚)』を用意してきているに違いない。それを出してもらって、それをみんなで分け合って食べるようにすれば、いいのではないか。」
そして弟子たちは群衆の中を回って、次のように呼びかけました。
「皆さん、イエス様が皆さんのお食事の心配をなさっています。皆さんの中には食べ物を持たずに出て来てしまった人もいらっしゃることでしょう。そこで、食べ物を持ってきた人たちにお願いします。それを出してくださいませんか。皆さんが出してくださったものをみんなで分け合って食べようではありませんか」
そして、この呼びかけに応えて、自分の食べ物を持ってきたのが、この「少年」ただ一人だけであったという結果に終わったのではないでしょうか。多くの大人たちは「自分の食べ物をどうして他人に分けてやる必要があるんだ。持ってきていないのは、そいつの自己責任だ」というような思いだったのでしょう。
それでがっかりしたアンデレは「これっぽっちじゃあ、何の役にも立ちません」と言ってしまいます。おそらくイエスはアンデレを叱りつけたでしょう。
「量ではない。たとえ少なくとも、自分の持っているもの全てを捧げる、この少年の心が何よりも尊いのだ。」
そしてイエスはこの少年の「捧げもの」を増やしていくのです。その際に「パンを取り、感謝の祈りを唱えて(11 節)」は最後の晩さんにおけるパンの聖別のことばと同じです。
実はこのパンを増やす奇跡は、今、私たちが預かっているミサを表しているのです。ミサを捧げる時、その場が「山」「人里離れた所」となり、私たちはキリストの御体を通して「神と出会う」のです。
そしてこの「少年」は私たち一人ひとりです。私たちは弱く、小さな存在です。
小さな「捧げもの」しか持っていません。この一週間、一生けん命生きて来た、苦しみ、喜び、労働すべてです。それを奉納行列の際に祭壇に運ばれる「パンとぶどう酒」に「乗せて」共にイエスに捧げるのです。
それをイエスは司祭の手を通してパンとぶどう酒とともに聖別して、全世界の人びとの救いのための捧げものとして父なる神に捧げてくださるのです。
ミサを受け身ではなく、キリストの奉献と共に自らを捧げて行くという積極性をもってミサに与かりましょう。
