カトリック香里教会主任司祭:林 和則
第一朗読「知恵の書1 章13-15 節、2 章23-24 節」
「知恵の書」は紀元前1 世紀すなわちイエスが宣教活動を行う100 年ほど前に成立したと考えられています。ユダヤではなく、エジプトのアレキサンドリアにおいてギリシア語で書かれました。当時のローマ帝国においてユダヤ人はギリシア人と並ぶ商業の民として栄えていました。主としてギリシア人が海上交易を、ユダヤ人が陸上交易を担っていました。そのために、このアレキサンドリアをはじめ、ローマの大都市においてユダヤ人は居住地を有し、中には富裕な商人として地域の有力者となるような者も出ました。そのようなローマ帝国各地に分散して生活をするユダヤ人はヘレニズム文化の影響を強く受けていて、ユダヤ教よりもギリシア哲学に魅かれていく者も多かったのです。
そのような状況下にあってユダヤ教を擁護し、その中心的書物である聖書の「知恵」のすばらしさを再認識させようとして書かれたのが「知恵の書」です。
本日の箇所も聖書の「創世記」の2 章から3 章に書かれている「アダムとエバ」すなわち人類の創生の物語についての解釈が述べられています。
ここでは本来、人間は神の似姿として造られたので、神の本性である永遠性を与えられていたとされています(2:23)。
「神が死を造られたわけではなく、命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない(1:13)」
それが「悪魔のねたみによって死がこの世に(2:24)」に入ったのです。蛇の「神のようになれる(創世記3:5)」という誘惑に人間は自らをゆだねてしまった結果として「死」が入り込んだのであって、神の思いではなかったのです。
神の思い、望みは、人間が「神の不滅の義(1:15)」を求めて生きることによって、再び神の永遠性に立ち帰ることなのです。
けれどもそれは、弱さのゆえに絶えず神の義に背いてしまう人間の努力によっては成し遂げられないものです。
だからこそ、父なる神は御子キリストを送ってくださって、神の側から手を差しのべて、私たちを「永遠の命」へと連れ戻してくださったのです。
本日の福音における、イエスが少女を死から命へと呼び戻した出来事にも、それが象徴されています。
第二朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙二8 章7、9、13-15 節」
この手紙の中でパウロが「慈善の業(7 節)」と書いているのは、一般的な慈善行為ではなく「エルサレム教会への募金」という特定の現実的な問題についての慈善行為です。エルサレム教会はコリントの教会のような「地方教会」にたいして「中央教会」ですが、経済的にかなり苦しい状態にあった信徒が多かったようです。14 節の「彼らの欠乏」の「彼ら」はエルサレム教会の信徒たちを指しています。
ただしパウロは「募金」もしくは「献金」という言葉を使いません。パウロにとってそれは、人間的な思いによる「奉仕活動」ではないからです。
「この慈善の業においても豊かな者となりなさい。あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています(7、9 節)」
「慈善の業」と「恵み」というように翻訳では違った言葉が用いられていますが、原文のギリシア語ではどちらも同じ言葉「カリス」です。ギリシア語のカリスには「恵み、感謝」という意味があります。「恵み」と「感謝」は切り離すことができません。「恵み」を実感した人には必ず「感謝」が湧きおこるからです。
「このカリスにおいても豊かな者となりなさい。あなたがたは、私たちの主イエス・キリストのカリスを知っています」
イエス・キリストの「カリス(恵み)」とは「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた(9 節)」ことです。
それは金銭的な意味ではなく「キリストは・・自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり・・へりくだって・・十字架の死に至るまで従順でした(フィリピ2:6―8 節)」と言われているように「十字架」を通して、ご自分の全てを私たちのために捧げてくださったことを示しています。
これほどまでのキリストの「カリス(恵み)」を、愛を「知っている」「実感している」なら、その「カリス」は私たちの小さな器から「カリス(感謝)」としてあふれ出さずにはいられません。
このキリストから受けた「カリス(恵み)」のあふれが「カリス(感謝)」なのです。キリストの「カリス」が私たちの中で働いて、私たちを突き動かすのです。
現在の私たちの教会においても「教会維持費」は信徒の「義務」となっていますが、「義務」として行うならばそれは「強いられてする」ものになってしまいます。
けれどもキリストの「カリス(恵み)」に包まれて、そのあふれとして「カリス(感謝)」として行うのであれば、それはキリストと共に生きる「喜び」になります。
私たちみんながつながっている「ぶどうの木」「キリストの体」である教会への感謝の証しとして維持費を捧げましょう。
福音朗読「マルコによる福音5 章21―43 節」
本日の福音では二人の女性がイエスと出会い、そこから生まれた交わりによってもたらされた、いやしと再生の出来事が語られています。
まず「出血の止まらない女(25 節)」です。彼女の苦しみは身体的な痛みだけではありません。律法では「出血」は「汚れ」とされていました(レビ記15:19―30)。そのためこの女性は祭儀や公けの食事の場に参加できず、彼女が使った物に触れるだけでも汚れるとされ、徹底した差別と疎外の中に置かれて生きて来ました。彼女は「汚れた女」である自分がイエスの前に出て話しかけることは恐れ多いとして、こっそりと後ろからイエスの服に触れようとします。イエスは「気づいて(30 節)」自分の服に触れた女性を探します。それは「力が出て行ったこと」だけではなく、女性の手を通してのふれ合いから、その女性のそれまでの人生のすべてと苦しみを瞬時に知ったからだと思えます。
ですからイエスは体だけでなく、その心の傷をもいやそうとして女性を探し求めたのだと思います。たいして女性はイエスが自分を探しているのは「汚れた手」でさわったことに対する怒りからだと思って「恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し(33 節)」ます。イエスはその姿に「深い憐れみ(スプランクニゾマイ)」を感じられたことでしょう。女性に対する言葉からはイエスの深い慈しみがあふれ出ています。
次に会堂長の娘です。すでに亡くなっていた娘をイエスは生き返らせますが、それは呪文を唱えたり、特別な祈祷をして「奇跡」の儀式を行ったというようなものではありません。
そこにあったのは、暖かい、人間的な「愛の交わり」でした。イエスはやさしく「子供の手を取って(41 節)」「少女よ、起きなさい」と呼びかけます。その愛の呼びかけにたいして少女は応えて「起き上がった」のです。「奇跡」というよりもイエスと少女との「愛の交わり」が少女の中に新たな命を与えたのです。
「出血の止まらない女」もこの「少女」もイエスと出会い「愛の交わり」を持った、それによって新たに生まれ変わったのです。
私たちもそうです。イエスと出会い、イエスとの「愛の交わり」の中に招き入れて頂いたことで、新たな命、人生を与えられたのです。
またマタイはこの出来事を「イスラエル」、「神の民」の再生の出来事としても捉えています。それは「十二年間も(25 節)」「十二歳に(42 節)」という「十二」という数字に込められています。聖書では「十二」は「神の民」のシンボルです。
「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ(26 節)」は神の民が王や祭司たちといった民の指導者によって苦しめられてきたこと、ついには「少女」のように死んでしまっていたことを表しています。そしてイエスがその神の民をいやし、「新たな神の民」として再生した出来事として読み込んでいるのです。
