2024年6月23日 年間第12主日(B年)のミサ

カトリック香里教会主任司祭 林和則

 

第一朗読「ヨブ記38 章1、8―11 節」

この朗読箇所は、本日の福音においてイエスが荒れ騒ぐ湖を「黙れ。静まれ」と一喝することによって鎮めたことに関連して選ばれています。

ヨブと友人たちとの長い議論の後、ついに神がヨブに向かって自らを顕現され、天地創造のわざについて語り、示されます。この箇所では「海」の創造について語られています。

「海は二つの扉を押し開いて(8 節)」とあります。これは創世記1 章に「神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた(7 節)」とあるように旧約の宇宙観では水は大地の海と青い大空の上にあると考えられていたことに基づいています。大空の海と大地の海の「二つの扉」が押し開かれてほとばしり出たのです。それはノアの時代の洪水にも勝る圧倒的な、逆巻く奔流であったことでしょう。

ところが神は「濃霧を産着としてまとわせた(9 節)」とあるように赤子の手をひねるようにして、荒れ狂う海を軽くあしらいます。そして「限界を定め(10 節)」ます。神にとってはどのような巨大な自然現象であっても、自由自在に治め、制御することができるのです。

 

本日の福音においてイエスが一言で湖を鎮めることができたのも、この神の権威をイエスも有しているからにほかなりません。

カトリック教会の教義として定義されているように、父である神と子であるイエスは「同一本質」であるからです。

 

第二朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙二5 章14―17 節」

本日のパウロの手紙は若干の言葉を補って読まないと、意味が通じにくい箇所であると思います。

「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上(14 節)」

「一人の方」はもちろんキリストです。キリストは単に「死んだ」のではなくその死によって私たちの罪を贖い、罪を滅ぼしてくださったのです。ですから「すべての人(私たち)も(罪に対して)死んだことになります(14 節)。」

それを信じ感謝する私たちは「もはや自分自身のために生きるのではなく(15節)」なります。これほどの愛を示された私たちは「自己中心的な、罪にまみれた生き方」を捨て去ることによって、キリストの愛に応えようとするからです。

ですから「自分たちのために死んで復活してくださった方(キリスト)のために生きること(15 節)」を人生の目標として生きて行きます。これが私たちの「信仰生活」です。ただし私たちはキリストの愛に向かって努力しようとしても、弱さのゆえにまた罪を犯してしまいます。

 

でもキリストは私たちの弱さをご存じです。だからこそ、最後の晩さんにおいて「これを私の記念として行いなさい」と言われて「最後の晩さんの記念」である「ミサ」を残してくださったのです。

「わたしたちと全教会のために、あなた(司祭)の手を通しておささげするいけにえを、神が受け入れてくださいますように(奉納祈願の前の祈り)」とあるようにキリストはミサを通してご自分をまた「いけにえ(生けるキリストの体である聖体)」として捧げて、私たちの罪を滅ぼすために十字架に上ってくださるのです。神と私たちを和解させてくださるのです。

私たちはミサに与かる度に「新しく創造された者(17 節)」として頂けます。

洗礼によって結ばれたキリストとの絆を新たにして頂けるのです。

ミサに与かることなしに信仰生活はありえません。なぜなら、私たちは自分の力によっては罪を贖うことはできないからです。それができるのはキリストだけです。

 

福音朗読「マルコによる福音4 章35―41 節」

今日の箇所のように福音書において「舟」と「荒れる湖」が出てくれば、「舟」は「教会」を、「荒れる湖」は「この世界」を表していると考えて間違いありません。今日の箇所もそうです。

イエスは弟子たちに「向こう岸に渡ろう(35 節)」と言われます。先週の福音は「神の国のたとえ話」でした。その流れから考えると「向こう岸」とは「神の国」であると考えることができます。イエスはこの地上的世界から「神の国」へ向かうために「教会」を創ったとも言えます。

ただしこれは「場所」的な移動ではありません。この地上世界を捨てて「神の国」へ行くということではありません。先週も申し上げた通り「生き方」の問題です。この地上世界を生きながらも地上的価値観に縛られてではなく、第二朗読でパウロが言うように「キリストと結ばれた人」として生きて行くことです。それは福音的価値観に従って生きることです。

けれども福音的価値観に従って生きようとすると必ず、この世からの「逆風」を受けることになります。この世は「荒れた湖」になるのです。

 

教皇フランシスコは何度も次のように言っています。

「私たちが福音的価値観に従って生きようとするとき、必ずこの世から迫害を受けることになります」

この「迫害」とはローマ帝国時代のように牢屋に放り込まれるとか、拷問を受けるとか、処刑されるとかといったものではありません。フランシスコは「生きづらく」なるというように表現しています。福音的価値観とこの世的、地上的価値観とは真っ向から対立するからです。

この世の原理はひと言で言ってしまえば「弱肉強食」であると思えます。激しい競争原理の中で強い者が勝ち、弱い者が負けて強い者に踏みしだかれる世界です。個人的にも、国家レベルにおいてもそうです。そのため強者と弱者の間に格差が固定されて行きます。「貧困の連鎖」がそうですし、世界的な経済構造においても富や資本が大国に流れ込んでいくようなシステムになっています。

そのような世界にあって福音的価値観「最も小さい者を大切にする(マタイ25:31-46)」「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい(同20:26-27)」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(同5:44)」などを生きたら、とてもこの世における立身出世は無理であろうと思えます。むしろ「敗残者」になるでしょう。

けれども私たちは、当時のローマ世界にあって、イエスはまさに「敗残者」として十字架上で死を迎えられたことに心を向けるべきです。

このような生き方を個人としても教会としても生きて行くならば、必ずこの世は荒れ狂う風と波となって私たちに襲いかかるのです。

 

本日の福音においても弟子たちは恐れおののきます。けれどもイエスは「艫の方で枕をして眠っておられ(38 節)」ます。それで弟子たちはおそらくこのイエスの「無関心」と思われる態度に苛立ちながら「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」とイエスに突っかかっていきます。

けれどもイエスの態度は「無関心」でも「惰眠」をむさぼっていたわけでもないのです。それは幼子が母の腕の中で完全に信頼しきって眠る姿のように、神への完全な信頼を表していたのです。

イエスは湖に「黙れ。静まれ(39 節)」と一喝して嵐を治めた後、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか(40 節)」と言われます。これは「私がその気になれば、こんな嵐は簡単に鎮められるということを信じなかったのか」という意味ではありません。「まだ神の愛を信じないのか。神の愛の内に生きていれば怖がることはないのだ」と言いたかったのです。

神の愛を信じ、その中で生きていれば、嵐が来ようとも恐れることはないのです。嵐や迫害を鎮めることよりも、神の愛を信じて生きることが大切であることを、イエスはご自分の穏やかに眠る姿を通して、弟子たちにわからせようとされていたのだと思います。