カトリック香里教会主任司祭 林和則
第一朗読「エゼキエルの預言17 章22―24 節」
エゼキエルは祭司でしたが、第一次のバビロン捕囚(紀元前597 年)の際に連行され、捕囚の地において預言者として活動しました。
活動の前半期においては捕囚に至ったのはユダヤの民の罪の結果であると厳しく民を糾弾しますが、後半期では神は「罪びとの死ではなく、罪びとが心を入れ替えて生きる(33:11)」ことを望まれるとして、民の再生への希望を語ります。
今日の預言もそのような箇所で23 節の「柔らかい若枝」とはダビデ王朝の子孫を指し、「高くそびえる山」とはエルサレムであり、そこに「移し植える」ことによって再びエルサレムを王座としてダビデ王朝が復興することを預言しています。ただし、歴史的にはダビデ王朝の復興は実現しませんでした。
539 年、ペルシア帝国のキュロス大王はバビロニアを征服した後、バビロンの各国の捕囚民が祖国に帰ることを許可します。ユダヤの帰還民の中にはダビデ王家の血を引くゼルバベルがいて、彼はダビデ王朝の復興を模索し、ユダヤの王となろうとします。けれどもペルシアは民の帰還は許しても国家としての独立は認めていなかったのです。あくまでもユダヤはペルシアの領土としてユーフラテス西方管区の一部に組み入れられ、ゼルバベルは暗殺されてしまい、ダビデ王朝の血統は絶えてしまいました。
エゼキエルの預言は成就しなかったのでしょうか。いいえ、キリストによって新たにされた私たちは、この「柔らかい若枝」はキリストを預言していたのだと旧約に新たな命を吹き込みます。「ダビデの子にホサナ(マタイ21:9)」と讃えられて、この世に来たキリストは、この世的な国ではなく、天の国、神の国をもたらしてくださったのです。
「あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住む(23)」は今日の福音の神の国のたとえである「葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る(マルコ4:32)」と響き合っています。
第二朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙二(5 章6―10 節)」
「聖書と典礼」のカッコでくくられている冒頭の言葉は、今週の朗読の先行箇所であった先週の第二朗読の締めくくりである以下の箇所をまとめたものです。
「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです(同書5 章1 節)」
「天にある永遠の住みか」とは、神の座における「父と子と聖霊の愛の交わり」です。地上での肉体という「住みか」の中での生活を終えた後、主イエスが自ら私たちを迎えにきてくださり、ご自分の「住まい」である「父と子と聖霊の愛の交わり」の中に連れて行ってくださるのです。その交わりは永遠で、その中に入れて頂くことによって、私たちも永遠に生きるのです。
本日の箇所はその希望を確信しているからこそ「わたしたちはいつも心強い」のですが「体を住みかとしているかぎり、主からも離れていることも知っています」とパウロは続く6節で語ります。「体」をもって生きている限り、私たちはどうしても地上にしばりつけられています。具体的には「体」を養うために食べなければいけません。食べるためには働いて金銭を得なければなりません。地上的には最大の価値である「金銭」から離れることはできず、そのためにさまざまな利害関係にも巻き込まれて行きます。
これに続く7 節の前に「しかしながら、それでも『わたしたちは、心強い』」というようにして8節を先に入れた方がよいと私には思えます。「心強い」のは私たちが「目にみえるもの(金銭やこの世的な価値)によらず、信仰によって歩んでいるからです(7 節)。」この「信仰」とは、「目に見えない主」であるキリストと聖霊を通してつながっていることを指していると思えます。私たちは地上を生きながらも、キリストの洗礼を受けたことによって、天におられるキリストといつもつながりながら人生を「歩んでいる(7 節)」のです。だから「心強い」のです。
地上にしばられながらも、いつも顔をあげて天におられるキリストを見つめて生きて行きましょう。
福音朗読「マルコによる福音4 章26―34 節」
本日の福音は神の国のたとえ話です。「神の国」はイエスの宣教の中心的テーマといってよいものです。イエスの宣教の第一声がそれを明確に示しています。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(マルコ1:15)」
神の国の到来を告げ知らせることこそが、イエスの宣教の第一の目的であったといえます。そのためにイエスの宣教を「神の国運動」というように呼ぶ場合もあります。ただ「運動」という表現は誤解を生じる恐れがあると思えます。
それは、地上に「神の国」を「作るために働く」ことが宣教であるというような誤解です。「神の国」は私たち人間が「作る」ものではないのです。
日本カトリック司教団公認の要理書である「カトリック教会の教え(カトリック中央協議会2003 年)」は「神の国」について以下のように教えています。
「神の国は人の努力や熱意によるのでなく、本質的に神の一方的な恵みです(マルコ4:26―29 参照)(P75)」
「神の国」が「本質的に一方的な神の恵み」であることを示している福音書の箇所とされているのが本日の朗読箇所の前半のたとえです。
「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない(26―27 節)」
この「種」が「神の国」です。この種は人が夜昼と世事にまぎれて生きているうちに芽を出し成長していきますが、どうしてそうなるのか、人は知りません。
確かに人は雑草を抜いたり、水をまいたりはしますが、それは植物の育つ原因ではありません。人はその成長を補助、「助けている」だけなのです。
「神の国」を育てるのは「神」であって、人はそれを助ける、いわば神の協力者になるだけで、あくまでも主体は「神」なのです。
それを人が「主体」になってしまい、人の考えや計画によって「神の国を作ろう」とする時、どのような結果に陥るのか、それは歴史における壮大な社会主義の実験が示しています。社会主義はある意味、人類の「ユートピア」を建設しようとしました。万民が平等で格差のない世界、それを人間が自らの力で得た「知識」や「科学」「法則」によって達成しようとしたのです。
けれども結果は悲惨きわまるものでした。ソビエトは独裁者スターリンによる全体主義国家になり、二千万人近くもの人びとが粛清されたのです。
人間が「主体」となるとき、驕り、思い上がり、傲慢が生じ、自分が支配者であるとすることによって自分の考え、方法だけを絶対化し、反対者たちを排除するようになってしまうのです。教会も「人」が主体となれば、そのような全体主義的な傾向に陥る恐れがあります。
「神の国」はギリシア語原文では「バシレイア」と言い、それは「神の支配」と翻訳することもできます。いわば神による支配が実現するところに「神の国」があるのです。けれどもこの「支配」は人間がもたらす全体主義的な「支配」とは全く別のものです。それは「愛の支配」とでも呼ぶべきものです。神の支配とは神がその広く豊かな愛で私たちを「包み込む」ことなのです。
先の「カトリックの教え」は以下のように続けます。
「しかしそれ(神の国)は人への愛の働きかけであるかぎり、人の自由で人格的な応答があってはじめてその人に神の支配が到達します(P75)」
「神の国」へと私たちを招く、神の呼びかけ、愛の抱擁に、私たちが応えていくことが問われているのです。イエスの神の国の到来を告げた後の呼びかけ「悔い改めて福音を信じなさい」は、神の愛の招きに応じてこれまでの価値観や生活態度を一新することです。自分ではなく神を主体として、神の愛に包まれて生きることです。
このイエスの宣教の第一声への応答こそが、私たちが「神の国」の実現のためにできることなのです。
