カトリック香里教会主任司祭 林和則
第一朗読「創世記3章9―15節」
アダムとエバは神から与えられた「エデンの園」という名の「楽園」に住んでいました。「エデンの園」が「楽園」であるのはそこが美しい場所、おいしい食べ物に満たされている場所、だからではありません。「場所」ではなくそこに住む者たちの「関係性」にあったのです。アダムとエバは完全な「信頼関係」によって結ばれていました。それは今日の朗読箇所の前、二人の出会いの後に書かれている「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった(2章25節)」という表現に象徴されています。
「裸」とは現在でも比喩として使われているように「ありのままの自分」と考えてよいと思います。その「自分」はさまざまな欠点によってあちこちが破れ、弱さのゆえに絶えず罪を犯すことによって傷だらけになっている、みすぼらしい姿をした「自分」です。そんな「自分」を相手にさらけ出しても恥ずかしくはない、恐れることがないのは、相手との間に完全な信頼関係があるからに他なりません。
一般的な人間関係において「完全」な信頼関係を築き上げることはきわめて困難でむしろ「不可能」というべきでしょう。その「不可能」が「可能」になっているのはこの関係が「人間」による関係ではなく「神」による関係によって成立しているからです。アダムとエバは神によってのみ可能である「神との完全な信頼関係」の中に生きる恵みを与えられていました。それによって、その関係の中で結ばれている二人の関係も完全な関係になることができたのです。
この信頼関係は完全な愛の交わりによってもたらされていました。それは共に相手を「神に愛されている人間」として敬い、尊重し合うことでした。
けれども二人は「神のようになりたい」という高慢な欲望によって、人間の側から神との信頼関係を壊してしまいました。それは同時に二人の信頼関係をも壊してしまうことでした。もはや神は恐れるべき存在となり、「ありのままの自分」をさらすことは神の怒りと罰を招くことに思え、二人は「裸」を隠し、また己の罪を認めることを恐れ、他者に責任転嫁をするようになったのです。
神との信頼関係を失ったことによって、二人は「楽園」を失い、ひたすら神の前から逃亡する存在となりました。けれども神はひたすら私たちを探し求め、ついには御子イエス・キリストを遣わすことによって、私たちをご自分の元に取り戻そうとしてくださったのです。
そして本日の第一朗読の末尾には「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く(15 節)」と預言されています。この「お前(蛇)の子孫」をサタン、「女の子孫」をキリストとして、世の終わりに至るまでのキリストとサタンの闘いを預言しているとの解釈が教会にはあります。人類の救いを願うキリストと人類の破滅を願うサタンとの霊的な闘いです。
その闘いが本日の福音の前半部に描かれているとして、この箇所が第一朗読に選ばれているのです。
第二朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙二4章13 節~5章1節」
この手紙の中には高齢者の方がたへのすばらしい、希望に満ちたメッセージがこめられていると思います。
「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます(16 節)」
「外なる人」は目に見える姿です。それは衰えていき、しわが増え、体は屈みこんでいきます。どんなに拒否しようとしても老化は進みます。けれども「内なる人」は目に見えない、命であり霊です。霊は絶えず日々新たにされ、より豊かにされていきます。「されて」と書かれているように、それは私たちの力ではなく、神ご自身が私たちを刷新してくださるのです。
その恵みがもっとも強く働く場こそが、このミサです。キリストの死と復活を記念し、キリストの命を頂く秘跡によって私たちは絶えず新たにされます。
いえ、「生まれ変わる」といってもいいでしょう。
パウロはこの神秘を次のように言い換えます。
「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続する(5:1)」
目に見える「外なる人(肉体)」は滅びますが、「見えないもの(霊)」は永遠に生き続けます。
さらにパウロは次のように結論づけます。
「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです(5:1)」
住みかは「家」ではありません。「霊」が住まう「肉体」です。肉体はやがて必ず滅びます。けれども「霊」である私たちにとっての本当の住みかとは、天(神の座)にある「父と子と聖霊の愛の交わり」なのです。その「神の愛の交わり」こそが私たちにとっての最終的な、永遠の「住みか」です。
福音朗読「マルコによる福音8章20―35 節」
本日の福音の前半は第一朗読で申し上げましたようにイエスとサタン、その手下たちである悪霊との闘いです。ただしそれはいつもイエスの一方的な勝利に終わっていて、「黙れ。この人から出て行け(マルコ1:25)」というように有無を言わさずに命令し、悪霊はそれに逆らうことができません。
けれどもイエスに敵対する律法学者たちは「悪霊の頭(サタン)の力で悪霊を追い出している(22 節)」と言ってイエスをおとしめようとします。
ただ、聖書学ではこのような敵対者からの誹謗中傷を「反対者の証明」と呼んでいます。イエスの反対者である律法学者たちでさえもイエスが悪霊を追い出していることを「認めている」ということです。
本来でしたらイエスが悪霊を追い出していること自体をもイカサマとして否定したいところでしょうが、それができないのは当時、それが「事実」としてユダヤ社会に広く認知されていたこと、もしくは反対者たち自身がそれを目撃したことを「証明」していると考えられるのです。
近代の「史的イエス」の探求においては奇跡などの超常現象は「事実」ではないと否定することを前提としていました。けれども現代においてはそれはむしろ偏向的な見方で、超常現象も在り得た「可能性」を視野に入れて考察することが公平な視点であるとされています。その視点からすると、この「反対者たちの証明」はイエスの反対者であっても認めていたということで、イエスの悪霊払いが「事実」であったことの可能性を高める強い証拠になるのです。
後半においてはイエスの母と兄弟たちが来て、人をやってイエスを呼びます(31 節)。けれどもイエスは「私の母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人びとを見回して「ここに私の母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われます(33―35 節)。
これはけっしてイエスの母、すなわち聖母マリアを除外、否定しているわけではありません。イエスが否定したかったのは、当時の社会にはびこっていた「血縁や家柄」を重視する体制だったのです。
当時の欧州、中東世界を支配していたローマ帝国は何よりも血縁と家柄を重視しました。どんなに能力がある人であっても家柄が低ければ高い地位に就くことはできず、能力はなくとも家柄が高ければ自動的に高い地位に就くことができ、それは家柄や血縁関係による激しい差別を生じさせていました。
イエスは血縁や家柄に関係なく、ただ神の御心を行うことによって、イエスと家族のような深い関係につながることができると言いたかったのです。
そして神のことばを受け入れたマリアこそが、実はもっとも「神の御心を行う人」であり、イエスはマリアを最高の「母」として人びとに示してもいたのです。
