*当日は堅信式が酒井司教様の司式によって執り行われました。説教も酒井司教様がされましたので、それを私が要約させて頂いたものを掲載いたします。
カトリック香里教会主任司祭 林和則
私たち信仰者にとって、偶然や「たまたま」はありません。全ては神の摂理の中にあると信じています。
ただし、私たち人間がそれを邪魔してしまうことはあります。それでも私たちは人生に起こる全てのことを通して、神の摂理を感じ取ることができ、それによって人生に意味を見出すことができます。
ですから人生に起こる全ての出来事は、神からの呼びかけなのです。神は出来事を通して、私たちに語りかけます。私たちはその神の声を聞き取らなければいけません。そして行いに反映させなければいけません。そのためには、私たちは神の声の前に沈黙する必要があります。でなければ聞き逃しかねません。日々の生活の中で黙想の時間を取ることは、とても大切なことなのです。
堅信の秘跡を受けることは一生に一度です。それを「キリストの聖体」の日に受けるということも偶然ではなく、神からの「呼びかけ」です。それは受堅者だけでなく、代父代母そして香里教会共同体の皆さんへの「呼びかけ」です。その「呼びかけ」を沈黙のうちに心を澄まして聞き取りましょう。
まず「聖体」に心を向けましょう。ご聖体はきわめて神的であると同時にきわめて人間的なものです。普通のパンであるのに司祭が聖別の言葉を述べることによって、そのパンにイエス・キリストがおられることになります。
人間的には、人は一生においてしばしば愛する人との別離を余儀なくされる場合があります。その際には少しでも相手に自分を思い起こしてもらうために写真を交換するなどのことをします。けれども写真はあくまでも「しるし」であって、その人自身ではありません。
神的には、キリストは「しるし」ではなく「現実」としてキリストご自身がお残りになったのです。
今月は「み心の月」です。イエスの「み心」は確かに神的なものですが、同時にイエスは私たちと同じように「暖かい心」を持っているということを示しています。愛するあなたがたと別れたくない、いつまでも一緒にいたい、という「暖かい心」のあふれ出たものが「聖体」なのです。
そのイエスの「暖かい心」をミサに与かる時、また教会に聖体訪問に来る時、私たちは味わうことができます。
本日の第一朗読「出エジプト記24:3-8」と福音朗読「マルコによる福音14:12-16、22-26」には全く同じ言葉が使われています。
それは第一朗読では8 節、福音朗読では24 節の「契約の血」です。
その「血」は、旧約(古い契約)においては羊や牛などの獣の血でした。ユダヤ教では血は命そのものと考えられていて、命をかけて誓うということを表していましたが、人間の血を流すことはできませんでしたので、代わりに獣の血を流していました。
けれども新約(新しい契約)においてはイエスご自身が血を流されたのです。
しかも最後の一滴までです。それはわき腹を槍で突かれて「血と水が流れ出た(ヨハネ19:34)」ことによって示されています。イエスは自分の命をかけて約束してくださいました。「これは真実の契約であって、私はけっしてあなたがたを裏切らない」というように。
堅信についてお話ししましょう。堅信式において、受堅者の額に聖香油が塗られます。聖週間の聖香油ミサにおいて前田大司教様が聖別された香油です。そこにはバルサムがふんだんに入れられていて、嗅いでみればいい香りがします。
それはキリストの香り、やはり「暖かい心」のあふれ出た香りです。キリストの香りを受けて、受堅者、そして堅信式に与かった香里教会の皆さんは新しい信仰の歩みを始めます。
信仰の歩みは「聖体行列」になぞらえることができます。聖体を拝領した私たちは聖体を自らの中に宿して人生を歩むことになります。それは、一生をかけての「聖体行列」です。
また、世界最初の「聖櫃」はご自身の胎にキリストの体を宿された聖母マリアです。その「聖体」は世に出て行き、やがて天に戻られましたが、新約の時代、教会の時代に入って聖母は再び「聖体」を受けて「聖櫃」になられました。
私たちも「キリストの聖体」を受けて、聖母と同じように「聖櫃」となる恵みを頂くことができるのです。
