カトリック香里教会主任司祭:林 和則
第一朗読「使徒たちの宣教2章1―11節」
本日の「聖霊降臨の主日」はまた「教会の誕生日」でもあるお祝い日です。それは「聖霊降臨」が弟子たちにとっての「洗礼」であったからです。聖霊による「キリストの洗礼」を受け、彼彼女らはまことの「キリスト者」となったのです。
「キリストの洗礼」は聖霊の働きによって、キリストの過ぎ越しである死と復活が受洗者の霊に現在化する秘跡です。「キリストの洗礼」を受けたことによって彼彼女らは「旧約の民」から「新約の民」へと過ぎ越し、新たな神の民の集いとなったことによって「教会」が誕生したのです。
ただ聖霊ご自身は天地創造の初めからこの地上に降って、神の思いを実現するべく働き続けていました。それが「キリストの洗礼」を通して、聖霊が私たち一人ひとりの中に降臨して、外からではなく、直接、私たちの中で働いてくださるようになったのです。私たちは聖霊を自らの内に宿す「聖霊の神殿(一コリント6:19)」となる恵みを頂いたのです。私たち一人ひとりにとっては洗礼を受けた日こそが聖霊降臨の日です。
聖霊を受けて「聖霊に満たされた」弟子たちは「霊が語らせるままに」宣教へと向かいます。聖霊の働きは絶えず私たちを「宣教」へと向かわせます。それは義務感からではなく、聖霊が与える信仰の喜びからあふれ出た、つき動かされるような、感謝の表出なのです。
そして世界で最初の聖霊の促しによる弟子たちの宣教に大きなしるし(奇跡)が現れます。それを聞いたあらゆる国から帰省していたユダヤ人が「めいめいが生まれた故郷の言葉で聞く(8 節)」ことができたのです。
教会は伝統的にこのしるしを創世記の「バベルの塔(11:1―9)」と関連付けて解釈してきました。バベルの塔において散らされた人類の言葉が再びひとつにされた、という解釈です。ただ「ひとつにされた」という表現は誤解を招きやすいと思えます。言葉はひとつになったのではなく、あくまでもそれぞれの言葉のままなのです。「言葉」はそれぞれの国、民族の文化の象徴です。神はそれぞれの文化をひとつにすることを望まれないのです。
バベルの王は自らの国の文化(ことば)こそが最高であると絶対化した結果、他の国の文化を否定し、自国の文化を他の国々に強制しようとしたと考えられます。それゆえに神は「バベルの塔」を破壊されたのです。神が望まれる世界は多様な文化が花咲く豊かな世界なのです。いろんな人がいていい、いろんな考え方があっていい、それが世界を、人間を豊かにする、けれども神のことばを生きることによって人びとがひとつになることができる、そうです、神の望まれる一致は「多様性の一致」なのです。お互いの違いを認め、尊重し合い、そしてともに「神の国」を目指す歩みの中で一致することができるのです。そのような多様
性こそが「神の国」の本質であるといえると思います。
そしてまた、このしるしは宣教するに当たっての大切な姿勢を教えてくれています。それは神のことばをそれぞれの国の言葉で語りなさい、それぞれの国の文化に受容させなさい、いわゆるインカルチュレーション(文化的受肉)の姿勢です。けれどもカトリック教会はいつしかこの姿勢を忘れてしまい、ラテン語を絶対化し、ヨーロッパ文化の中で受容された信仰形態のみを強制する方向に傾いていました。それが「聖書に回帰する」ことを大前提とした第二バチカン公会議によって修正されて、その努力は今も続けられていています。そして、その努力は私たち一人ひとりに委ねられているのです。
第二朗読「使徒パウロのガラテヤの教会への手紙5章16-25節」
本日のパウロの手紙の中で皆さんの注意を促しておきたいのは「肉と霊とが対立し合っている(17 節)」という表現です。これはけっして「肉体と霊魂とが対立し合っている」という意味ではありません。キリスト教の思想は母体であるユダヤ教に基づいています。ユダヤ教には人間の存在を「霊魂」と「肉体」とにふたつに分離して考えるような二元論的思考はありません。それは当時においてはギリシア的な思想に基づくものでした。そのような二元論的な人間観においては「霊魂」が尊ばれ「肉体」は汚れたものとして蔑視されがちになります。
このような霊肉分離による肉体蔑視はユダヤ教にもキリスト教にも本来はなかった視点だということを頭に置いてもらって聖書を読んで頂きたいのです。
でなければ間違った信仰理解に陥りかねません。
私たちは信仰宣言において「からだの復活を信じます」と宣言します。この「からだ」とは「肉体」ではありません。「肉体」と「霊魂」とが分かちがたく結びついた「からだ」なのです。いわば、私たちの人間としての人格、人生を生きて来た体験によって培われた自己など、全てを含めた「私」という全存在です。「肉体」なしにはあり得ない「全存在」なのです。
パウロの手紙、また福音書(特にヨハネ)において「肉」「霊」と言われる時、それは「生き方」の問題なのです。
「肉による生き方」とは神の思いではなく、自分の思い、またこの世的な価値観(お金や名誉を求める)に従う生き方です。「霊による生き方」とは利己的なものではなく神の思いに従う生き方なのです。
ですからパウロは肉の生き方がもたらす「好色・・偶像礼拝・・そねみ・・怒り・・」などを「肉の業(わざ)」と呼び、他方、霊の生き方がもたらす愛などを「霊の結ぶ実」と表現して使い分けています。
「肉」の生き方とは所詮、人間の「業」つまり「働き」にすぎないからです。
自分の考え、思い、企み、行いだけによる「業」にすぎないのです。けれどもだからこそまた、それを自らの力だけによって成し遂げた「業」であると誇り、おごり高ぶるのです。
けれども「霊」の生き方はその人の「業」ではないのです。神がその人の内に働いて、実を結ばせてくださるのです。人間の「業」ではなく、神によってもたらされる「実り」なのです。霊に生きる人は自分を空しくする(空っぽにする)ことによって、神がその人を使って働いてくださるのです。
「肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです(24 節)。」
これは私たちが利己的な生き方を捨て、キリストとともに十字架の道を生きるようにという、パウロの教えなのです。
福音朗読「ヨハネによる福音(15 章26―27 節、16 章12―15 節)」
イエスの最後の晩さんにおける告別説教と呼ばれている教えの中で、聖霊(「真理の霊」と表現されています)は「弁護者(ギリシア語原文ではパラクレートス)」と呼ばれています。ただ、ヨハネの福音記者は手紙の中ではイエスのことをも「弁護者(パラクレートス)」と呼んでいます。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます(ヨハネの手紙一2:1)」
ふたりの弁護者がいることになりますが、役割が違うのです。先の手紙はこう続けます。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償う方です(同上2:2)」イエスは私たちの罪を償い、私たちのために父なる神に執り成してくださる方なのです。
聖霊は「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる(16:13)」方なのです。
「真理」は抽象的な教えではなくイエス・キリストの全人格を指します。イエスはその生涯、ことば、わざを含めた全人格によって神の真理を示されたのです。
「わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネ14:6)」
私たちの信仰生活はふたりの弁護者によって守られ、導かれています。
私たちは弱さのゆえに絶えず罪を犯します。けれどもその度にキリストは私たちの罪をあがない、父なる神にゆるしを求めてくださいます。
聖霊は私たちにいつもキリストの姿、生き方を示し、私たちがキリストに従って生きることができるように導いてくださるのです。
